縄文時代

縄文時代

目次

縄文時代について

縄文時代は約15000年前に始まった

動植物などの自然環境が、大きく変化した頃に、日本では縄文文化始まったといわれる。
縄文時代は、約15000年前に始まり約2400年前まで、12000年以上もの 長い間続いたとされているが、正確な数字はまだよく分かっていない。

時代区分

草創期、早期、前期、中期、後期、晩期、の6時期に区分される。

草創期
旧石器文化から縄文文化に移り変わる頃、世界最古となる土器が発明され使用された。
早期
囲炉裏に突き刺して使用するため尖底が特徴の土器がつくられた。
前期
土器面にさまざまな工夫をこらして縄文が多用された。
中期
立体的な取っ手が付けられた装飾的な土器がさかんにつくられた。
後期
土器が小型化し、線引きで複雑な文様が付けられた。
晩期
精緻な文様の多くの器種の土器がつくられた。

「縄文」の名付け親は米国人学者

明治のはじめに来日した、東京帝国大学で生物学を教授していたエドワード・モース(米国)によって「縄文」と名付けられた。モースは大森貝塚で、日本ではじめて考古学の正式な発掘調査を行った(明治10年)。モースは発掘調査報告書のなかで、出土した土器に縄目のような模様が施されていることから「cord marked pottery」と表記。これが「縄紋」と訳され、のちに「縄文土器」と呼ばれるようになった。

日本列島の誕生

日本人の渡来は日本列島の誕生より前

日本列島には、約5万年から3万5千年前ころに、大陸からの北ルートと南ルートの両方で、最初の人類が日本列島にやってきて、原・日本人が誕生したとみられる。

氷河期が終わり、日本列島が誕生

やがて、氷河期が終わり、気候の温暖化により海面が上昇し、日本列島が出来たのが、およそ一万年前の事である。日本列島に住みはじめていた人々は、独自に環境への適応をとげた。

列島の外とも交流を持っていた縄文人

日本列島は、北は千島や樺太を介して大陸と繋がり、九州は朝鮮半島に近く、琉球列島は台湾に近い。 縄文文化は、時期や地域によっては、千島方面や朝鮮半島南部、琉球列島まで広がることがある。また、土器以外にも、縄文人の貴重な資源である黒曜石が、原産地から遠く運ばれ、朝鮮半島南部や琉球諸島まで運搬されることもある。縄文文化は、決して日本列島内で閉じた状態ではなく、周辺部と交流をもっていた。

土器、弓矢の誕生

先土器時代には存在しなかった「土器」

約1万6000年前から約2400年前の縄文時代につくられた土器「縄文土器」とよんでいる。土器の使用は、縄文時代以前の旧石器時代にはみられなかったもので、これによって縄文人の生活は格段に向上した。

縄文文化は縄文土器の出現と共に始まった。
日本の縄文土器は、世界的に見ても、極めて古い土器である。
そして、その形に応じて、六つの時期に区分されている。
六つの時期の中でも、特に中期の土器が最も芸術的で、装飾鮮やかな土器が作られた時代である。
そのため、中期の土器には、呪術的な意味が込められていたと考えられているのだ。

土器製造の技術が進化していった

縄文土器は1000度以下の温度で焼成される。現代の陶器が、大体1200度くらいで焼かれているのと比べると、低い温度で焼成されているといえる。そのため、もろく割れやすいという特徴をもっている。
色は赤褐色や黒褐色の青色系である。全体的に厚手に作られており、これは、壊れやすいという欠点を補うための特徴であるが、厚みは縄文時代の草創期から晩期へと移るにつれて徐々に薄くなっていき、土器の表面には装飾が施されるようになっていく。

縄文時代、定住が始まった

縄文時代に入ると定住化が進み、各地に竪穴住居が造られるようになった。
縄文人は定住場所を厳選しており、特に南向きで日当たりの良い大地を好んで生活していた。
そして、複数の住居が集まり、集落が形成されていく。
>> 暮らし

土器によって、食生活が変わった

土器の登場によって、食料の煮炊きや、木の実などのアク抜きが可能となり、食材をあらかじめ加工する事により、人間が食べられるものが格段に増えたのだ。
また、密閉などの工夫も可能になり、食料の保存が出来るようになったため、人々の生活環境は大きく豊かになっていった。
>> 食事
>> 土器と土偶

豆などの栽培も行われていた

縄文人は、狩猟採集が主な生業ではあったが、水田でのイネの栽培は、北部九州では縄文時代後期末頃からすでに開始されていた。また、豆類などの、栽培がおこなわれていたこと。
しかし、安定的にエネルギーを得るために、ドングリ類やトチノミなどの堅果類や、ゆり根などの根茎類が、エネルギー源として多く食されていた。

舟と航海技術

水上を動く舟は陸路より移動が速く、更に沢山の荷物を運ぶ事が出来る。
この水上移動・水上輸送の利点に着目していた縄文人たちは、だけでなく、遠隔地交易にも舟を利用していた。
縄文遺跡からは丸木舟の遺構も出土している。
>> 舟と航海技術

縄文人の外観的特徴

縄文人はカゴも衣類に使う布材ですらも、植物から自力で作り出していた。
彼らが持っていいた編み物技術は現代と遜色がなかったという。
また彼らはとてもオシャレで、耳飾りや首飾り、腕はなど様々なアクセサリー(装飾品)を身に付けていた。
彼らの外見や特徴、服装を見てみる。
>> 縄文人の外見

縄文人に恵みと災いをもたらした自然

縄文時代の人々は人間の知恵や力が及ぶ領域が限られていた。
その為、縄文人は自然界の万物に対して畏敬の念を抱いていた事だろう。
自然界では木の実や山菜、動物、水など、人間が生きていくために必要な恵みをもたらした。
縄文人はその恵みに感謝し、収穫が行われる秋に祭礼を行ったと考えられる。
>> 信仰と祭祀

埋葬

埋葬の儀礼は縄文時代から始まり、仏教などの各宗教の教義に引き継がれた。
そして、死者を丁寧に葬った縄文人の埋葬の慣習は、現代の埋葬にも息づいている。
>> 埋葬

年代別の縄文土器

紀元前12000頃〜(草創期) タイプ:丸底深鉢

特徴:豆粒文、貝殻で付けた爪型文、緑の粘土に紐を貼り付けた隆起線文などの単純な文様が付けられている土器。
長崎県の泉福寺洞窟から出土した豆粒文土器は世界最古の土器

紀元前7000頃〜(早期) タイプ:尖底深鉢

特徴:刻みを付けた棒や糸を巻き付けた棒を転がして土器全体に文様を付ける。
使用する際は、底の尖った先を地面に刺して安定させる。

紀元前4000頃〜(前期) タイプ:平底深鉢

特徴:安定して置ける平底土器が一般化した。表文の模様も複雑になっており、円錐型以外にも、円筒型の深鉢や浅鉢、台が付いた土器なども作られた。

紀元前3000頃〜(中期) タイプ:深鉢平底

特徴:円筒と円錐を組み合わせた、より形が複雑になった土器。炎を模したような形の土器も見つかっている。
文様も渦巻文などの芸術的なものが付加され、注口の付いた土器まで作られた。

紀元前2000頃〜(後期) タイプ:多種多様

特徴:注口や持ち手、蓋などが付いており、より実用的な土器が多様化して作られた。
一度付けた文様を磨いて消す磨消縄文(すりけし)などの装飾技術が発達した。

紀元前1000頃〜(晩期) タイプ:多種多様

特徴:煮炊きや貯蔵用の土器から、香炉などの、より多様な形や大きさの土器が作られた。
東日本で特に芸術性の高い小型の土器が見つかっている。繊細で洗練された文様が刻まれている。

縄文土器の発見

モース、縄文土器を発見したアメリカ人

縄文土器について、初めて言及したのは日本人ではなく、アメリカ人の動物学者であるエドワード・シルベスター・モースであった。

水族館に勤めていたモース

明治時代になると日本政府は、文明の近代化を目指し、多くの分野におい外国人の知識を求めた。その要求に応じて日本へやってきたのがお雇外国人とよばれる人たちであり、動物学者としてアメリカの水族館に勤務していたモースも、そのひとりであった。

「縄目をつけられた土器」を発見

偶然の発見が世紀の大発見に

明治10年(1877)に来日したモースは、東京帝国大学で生物学を教え、ダーウィンの進化論を紹介したことでも知られるが、移動の途中車窓からみつけたのが大森貝塚である。モースはいったん日本を離れるが、その後、再び日本に来日し、明治12年に大森貝塚の報告書を出したが、その中で出土した土器について、「縄目をつけられた土器」と表現した。これが縄文土器の由来となったのである。

「縄文土器」の表記がさす土器とは

縄文時代につくられた土器、のこと

このことからわかるように、本来の言葉の意味としては、「縄文土器」とは一般的に縄目文様のついた土器のことをいう。
しかし、すべての縄文土器が縄文をもっているわけではなく、地域によっては縄文時代を通して縄文を施さない土器を用いているところもある。これらを含めて、縄文時代につくられた土器を縄文土器とよんでいる。

縄文は「縄紋」とも書く

縄文という表記については、「縄紋」が用いられる場合もある。むしろ、明治時代には縄紋が使われることが多く、土器も「縄紋土器」と表記された。昭和時代になると、「縄文」の使用例が増し、一般的には縄文と表記されるようになるが、現代においても「紋章」は「文章」と表記しないように、文様は文字ではないという理由などから「縄紋」とすべきであるという主張もみられる。


↑ページTOPへ