足利義政

応仁の乱を招いた 足利義政

足利義政

父を目指すが、挫折により徐々に無関心に

足利義政は(1436〜1490年)は六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の子で、兄の急死により、8代将軍の就任する事になった。
将軍に就任した当初は、管領である畠山持国(はたけやまもちくに)や細川勝元(ほそかわかつもと)らの補佐の下に幕政を執っていたが、義政の成長と共に将軍親政の傾向が強くなっていくのであった。
義政は、父・足利義教を理想として前向きに政治を行っており、守護大名の勢力抑制などを進めていた。
ところが、1466年に諸大名の共謀によって執事であった伊勢貞親(いせさだちか)が失脚してしまった。この貞親は義政にとって無くてはならない存在であった。
さらに妻の日野富子(ひのとみこ)の実家である日野家が政治に口出しをするようになり、同時期に幕府を財政難が襲うなどの災難が重なってしまった。
思い通りの政治を執る事が出来なくなってしまった義政は、次第に政治に対して無関心になっていくのである。

大乱 応仁の乱が勃発

義政が政治に対して関心を失うと、社寺巡礼や別荘の造営などに没頭してしまう。
幕府の権威が失墜していく中、複数の後継者争い家督争いが起こり始めるのである。
細川勝元山名持豊(やまなもちとよ)により守護大名同士の幕府内の権力争い、義政の弟である足利義視(あしかがよしみ)と実子の義尚(よしひさ)による将軍の後継者争い、斯波氏と畠山氏の二つの家での家督争いなどが複雑に絡み合っていくのであった。
そして1467年、10年に及ぶ大乱である「応仁の乱」が勃発してしまう。
乱は全国各地に飛び火して行き、日本全国の大名を東西二つの勢力に分かる争乱へと発展していく事なり、荒廃してしまった秩序が後の戦国時代へと繋がっていくのである。

芸術面で高い素養を見せる

応仁の乱勃発後も、自暴自棄になった義政は何ら有効な手段を講じる事がなく、乱が治まる気配のない中、1473年には子である義尚に将軍職を譲るのであった。
将軍職を辞し、隠居した義政は自らの趣味の世界に没頭して行く。
しかし、政治には無責任であった義政だが、芸術面では高い素養を見せるのである。
能役者の音阿弥(おんあみ)、画家小栗宗湛(おぐりそうたん)、相阿弥(そうあみ)などの優れた芸術家を育て挙げることに成功した。
また、三代将軍 義満が造営した金閣に対し、義政は東山に銀閣を造営した。これらは「わび・さび」を重視した文化である東山文化をして、後世に評価されていくのである。
1483年には義政は、全工事の完了を待たずに山荘へと移り、趣味三昧の風雅な生活を送る事となる。
そして7年後の1490年に死去した。
※義政が山荘へ移住したのは、妻の富子との関係悪化が原因であったといわれる。



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