徳川慶喜

徳川幕府15代征夷大将軍 徳川慶喜

徳川慶喜

時代に翻弄された最後の将軍

徳川慶喜(1837〜1913年)は徳川幕府の第15第征夷大将軍、最後の征夷大将軍でもある。
御三家の水戸徳川家に生まれ、御三卿の一橋家を相続した。
安政の大獄で不遇の日々を送るが、幕政の危機を受け要職に返り咲く事となる。
14代将軍家茂の急死を受け、自身が将軍に就任する。
幕末の情勢を受け、大政奉還により徳川家の存続を図るも、倒幕勢力による王政復古の大号令によって敗北、江戸城の無血開城を決意する。

安政の大獄で不遇な日々を過ごす

幼いころから聡明と評価されていた慶喜は、13代将軍の徳川家定の継嗣に推挙された。
しかし、幕府を二分した将軍継嗣問題は、紀伊の徳川慶福(後の家茂)の将軍就任によって決着する。
慶喜は、もう一つの問題であったアメリカ・列強との条約締結問題で、大老井伊直弼の無断締結などの行いを批判する。
これにより、不時登城(定められた日以外に、許可なく城に入る事)を罪に問われ蟄居謹慎処分となった。

薩摩藩の島津久光と対立

この間、幕政は開国問題への対策が後手に回り、薩摩藩の島津久光が幕政に介入する事態となった。
権力の再強化を図る幕府は、慶喜を将軍後見職に登用する。
慶喜は京都で交渉に臨んだが、尊王攘夷派の画策にあい、返って攘夷の決行日を約束する結果となってしまう。
八月十八日の政変で尊王攘夷派が京都を追われると、慶喜は再び上洛し、以後の幕政を諮る「参与会議」を召集する。
しかし、兵庫開港問題で島津久光と激しく対立した事から、会議は成果を挙げないまま崩壊してしまう。

将軍に就任

家茂の急死で、15代将軍となった慶喜は、幕政改革に着手して政治の刷新を図る。
四候会議(しこうかいぎ)」では、兵庫開港と長州征討の事後処理問題で朝廷の承諾を引き出すことに成功し、雄藩(薩摩、土佐、越前、宇和島)の主張を退けて幕府の面目を保った。
しかし、これらの施策も功が無く倒幕運動が強まった為、慶喜が対抗策として打ったの大政奉還であった。
形式的に政権を朝廷に返上し、徳川家が武家代表として実質的な主導権を執る構想だったとされる。

新政府軍に敗れ、自ら退く

だが倒幕は対抗して王政復古の大号令で幕府廃止を宣言した為、構想は頓挫してしまう。
慶喜はさらなる対抗策を打つことなく、鳥羽・伏見の戦いのあと、江戸へ退却し、自ら謹慎の道を選ぶ。
以後、政治の表舞台に立つことなく、これによって260年続いた江戸幕府終焉を迎えた。



↑ページTOPへ