第二次世界大戦

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第二次世界大戦

ドイツのポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦。
続く日本の真珠湾攻撃から始まった日米開戦により、ヨーロッパとアジア・太平洋を主戦場とする、世界規模の大戦争となった。
世界中を巻き込んだ大戦の結果、5千万人以上といわれる犠牲者を出した戦争は、連合国の勝利に終わった。

主な出来事(年代順1938〜1945)

日米交渉の決裂と開戦まで, ドイツがオーストリアとチェコを併合, ノモンハン事件, 独ソ不可侵条約, ポーランド侵攻, 冬戦争, ノルウェー侵攻, フランス降伏, 独ソ戦, バルバロッサ作戦, スモレンスクの戦い(1941年), キーウの戦い, クリミアの戦い, モスクワの戦い, レニングラード包囲戦, 米国への宣戦布告の遅れ, 真珠湾攻撃, マレー・シンガポール攻略戦, 香港島攻略戦, フィリピン攻略戦, 蘭印作戦, ビルマ作戦, ミッドウェー海戦, 第二次ハルキウ攻防戦, ブラウ(青)作戦, スターリングラードの戦い, ガダルカナル島の戦い, 第三次ハルキウ攻防戦, ビスマルク海海戦, い号作戦, キスカ島撤退作戦, クルスクの戦い, 連合国のイタリア侵攻, インパール作戦, 中国戦線, ノルマンディー上陸作戦, サイパン島陥落, マリアナ沖海戦, バグラチオン作戦, パリ解放, ペリリュー島の戦い, クールラント・ポケット, レイテ沖海戦, フィリピン防衛戦, バルジの戦い, ルソン島の戦い, 硫黄島の戦い, 春の目覚め作戦, オーデル・ナイセの戦い, ベルリン陥落, 日本本土への大空襲, 沖縄戦, 原爆投下,

ヨーロッパと太平洋を舞台とした大戦争

ドイツのポーランド侵攻により開戦

1929年の世界恐慌によってヴェルサイユ体制を始めとする国際協調体制は崩れ、世界は再び大戦へと突入していった。
38年頃から対外侵略政策を活発化させていたナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーに対し、イギリス・フランスは反共産党政策を優先、ドイツはさらに侵略政策を推し進めた。
38年3月13日にオーストリア、39年3月15日にチェコがドイツによって併合された(オーストリアとチェコの併合)。
さらに39年8月に独ソ不可侵条約(ドイツとソ連)を結んで後方に備えると、翌9月にはドイツ軍がポーランドへ侵攻する。
これに対抗して英・仏が遂にドイツに対し宣戦、第二次世界大戦が勃発した。
さらに1941年6月22日、ドイツはソ連との不可侵条約を破って一方的にソ連への侵攻も開始した。(独ソ戦)

ドイツの快進撃を目の当たりにしたイタリアと日本

開戦後のドイツは快進撃を繰り出し、次々と周辺国を占領、40年5月には北フランスに進軍する。
そして6月にはパリが陥落し、フランスは降伏してしまう。
この時、ドイツの勝利を確信したイタリアもドイツ側に立って参戦した。
日本も、駐ドイツ大使の大島浩によって、ドイツの勝利を確信した報告がされていたという。
ドイツが、イギリスに勝利すれば、アメリカは単独での長期戦には望まないだろうという算段だった。

日本とアメリカとの対立

日本の東南アジア進出を警戒したアメリカ

この頃、日中戦争の長期化によって、日本軍は疲弊しており、石油などの戦略物資を求めていた。
そこで日本は、大東亜共栄圏という東アジアの共栄圏の構築・植民地解放という大義を掲げ、東南アジアへ進出する。
40年9月に日独伊三国同盟を結び、さらに41年4月には日ソ中立条約を結んだ。
ソ連との中立条約を結ぶ事で、背後を固めた日本軍は、東南アジアへの進出をさらに推し進めていく。
しかし、この日本の南進政策はアメリカ・イギリス・オランダとの利害対立を深めており、戦争回避は不可能なところまで来ていた。
そして、アメリカによる対日石油輸出禁止などの経済制裁が発動、日本も戦争を決意する事になる。

真珠湾攻撃で、日米開戦

対米交渉が行き詰まった日本軍は、1941年12月8日、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃する。
これによって、太平洋戦争が勃発、戦争は全世界的な規模に発展した。
なお、この時、日本が勝利を確信していたドイツは、ソ連との戦争で行き詰まりを見せていた。

徐々に押される枢軸国軍

設備に差があった連合軍と枢軸国軍

日・独・伊を中心とした枢軸国は緒戦こそは優勢であったが、物資や情報の面で勝る連合国側が次第に戦局を有利に展開するようになる。
この時、ドイツから大島浩が日本へ送っていだ暗号電文も、アメリカによる傍受・解読がなされており、軍事情報が筒抜けだったという。
>> 日本の暗号は解読されていた

イタリアとドイツの降伏

イタリアは米・英軍がシチリア島に上陸するとムッソリーニが失脚、代わったバドリオ政権は43年9月に無条件降伏した。
また、独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻したドイツは、42〜43年のスターリングラード攻防戦以後劣勢となり、各地で敗北を重ねた。
45年にはソ連が加わった連合軍がドイツ領内に侵攻、4月にはヒトラーが自殺し、翌5月に無条件降伏した。(ベルリン陥落)

日本の無条件降伏

日本は、緒戦こそ戦争を優位に進めていたが、42年のミッドウェー海戦以後、劣勢に転じた。
45年8月には広島と長崎に原子爆弾が投下され、さらに同年2月のヤルタ会談で対日開戦の密約を結んでいたソ連が参戦する。
日本は、終戦に向けてソ連の仲介を望んでいたが、ソ連参戦によって、最後の望みも絶たれてしまう。
そして、ポツダム宣言を受託し、8月15日に無条件降伏した。

第二次世界大戦の流れ

ヨーロッパ戦線

第二次世界大戦のヨーロッパ戦線は、ドイツのポーランド侵攻によって、イギリス・フランスとドイツが開戦した事から始まった。
1941年から独ソ戦も開始された。

1939年9月 ドイツ、ポーランド侵攻
1939年8月に独ソ不可侵条約を結んだドイツはポーランドに侵攻。
これに対し、英・仏が宣戦して第二次世界大戦が始まった。
1940年6月 連合軍、ダンケルクから撤退
ドイツ軍が北フランスに侵攻すると、孤立した英・仏軍はダンケルクからイギリス本土に撤退。
同月ドイツ軍がパリを占領した。
1941年4月 ドイツ、バルカン半島へ侵攻
ドイツ軍がユーゴスラビア、ギリシアを制圧すると、独ソ関係は緊迫する。
ドイツは6月にソ連への侵攻を開始した。
1942〜1943年 スターリングラード攻防戦
ソ連第三の工業都市を奪う為、ドイツ軍はスターリングラード(現ヴォルゴグラード)に侵攻するが、ソ連軍の反抗で敗北。
以後劣勢に転じる。
1943年9月 イタリア、無条件降伏
英・米連合軍が北アフリカからシチリア島に侵攻すると、軍部や保守派がムッソリーニを逮捕。
バドリオ政権を樹立し、連合国に無条件降伏した。
1944年6月 連合軍、ノルマンディー上陸
「史上最大の作戦」といわれ、第1波攻撃だけで約17万6千人の兵士が作戦に参加。
その後約3カ月で連合軍はフランスの大部分を奪還した。
1945年5月 ベルリン陥落でドイツが降伏
ノルマンディー上陸作戦に成功した連合軍側が次第に勢力を盛り返し、1945年からはドイツ領に侵攻する。
4月にソ連軍がベルリンを包囲、ヒトラーが自殺した後、5月にドイツが無条件降伏した。

太平洋戦争

第二次世界大戦におけるアジア太平洋地域で行われた戦闘で、日本と米・英・中・オランダの連合国との間で戦われた。

1941年12月 日本、真珠湾攻撃
日米交渉が不調に終わると、日本軍はハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けた。
1941年12月 マレー沖海戦
日本軍の航空部隊がイギリス東洋艦隊の主力戦艦を撃沈し、西太平洋の制海権・制空権を握った。
1942年6月 ミッドウェー海戦
米空機の急襲により主力空母を失った日本は、以後、戦争の主導権をアメリカに奪われた。
1943年2月 ガダルカナル島陥落
1942年8月に米軍が上陸し激戦が繰り返されたが、43年2月に日本軍は撤退する。
戦争の主導権は完全にアメリカが握る事となった。
1944年3月 インパール作戦
英軍のビルマ侵攻防止と、チャンドラ・ボースの自由インド政府を支援する為に発動された。
しかし、英軍の反撃や補給の途絶などにより日本軍は撤退。
日本軍に7万人以上の死傷者が出た。
1944年7月 サイパン島陥落
同年6月にサイパン島に上陸した米軍に対し、地上戦を展開した日本軍だったが、7月に部隊は全滅。
同島に航空基地を確保した米軍は、日本本土への本格的な空襲を開始した。
1944年10月 レイテ沖海戦
フィリピン周辺海域での戦闘で日本軍は武蔵をはじめとする戦艦を失い、連合艦隊が事実上壊滅した。
1945年4月 米軍、沖縄本島上陸
沖縄に米軍が上陸する。
太平洋戦争において、日米の最大規模で最後の戦闘となった。
日本が無条件降伏を受け入れるまで、戦闘が続いた。
1945年8月 原爆投下、日本無条件降伏
広島、長崎に原子爆弾が投下され、日本は遂にポツダム宣言を受託、連合国側に無条件降伏し、戦争が終結した。

第二次世界大戦による犠牲者

第二次世界大戦での死者は5000万人を超え、中でも民間人の犠牲者は3400万人に達したといわれている。
第二次世界大戦は第一次世界大戦以上の総力戦となり、相手国の生産力や士気を奪う事が戦略上の重要事となった為であり、爆撃機による空襲などで多くの都市住民が犠牲となった。
また、原子爆弾に代表される兵器の進化と破壊力の増大も犠牲者数を増した要因である。
さらに、ナチスによるユダヤ人虐殺なども、非戦闘員の大量被害者が出た理由だ。


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