太平洋戦争末期、日本に二発の原子爆弾が投下された。
昭和20年8月6日の広島市、8月9日の長崎市である。
二つの原爆によって、一瞬のうちに多くの人々の命が失われてしまった。
昭和20年(1945年)7月25日の早朝、ポツダム会談に出席しているマーシャル参謀総長は、ワシントンのトーマス・ハンディ将軍(マーシャル将軍留守中の参謀総長代理)に電報で原爆投下の承認を与えた。
ハンディはただちに米戦略空軍司令官カール・スパーツ大将に、8月3日以降、原子爆弾を日本へ投下するよう命令書を手交した。
翌26日、米・英・支(蒋介石の中国政府)3国は、日本軍の無条件降伏を要求するポツダム宣言を発表した。
27日、鈴木首相はこの宣言を「黙殺する」と声明、それを連合国は「拒否」と受け取った。
ポツダム宣言は、もしこれを受け入れなければ、「迅速かつ十分なる破壊あるのみとす」と結んでいたから、原爆投下の恰好の口実を得た事になった。
日本に対して最初の原爆を投下するという密約がルーズベルト米大統領とチャーチル英首相との間に交わされていた(1944・9・18のハイド・パーク秘密協定)。
そのときには、原爆が完成する前にドイツは降伏するだろうという見通しがあったとして、原爆をドイツへ投下するという事は公式的には言及された事がない。
テニアンの基地を発した原爆搭載機B29「エノラ・ゲイ」号は、8月6日午前8時過ぎ広島上空に侵入、県産業奨励館(現在の「原爆ドーム」)近くの相生橋を目標に、高度8500mからウラン型「リトルボーイ」を投下した。
43秒後、高度580mの地点で爆発、それは目標から300m東南の島病院の上空だった。
瞬時にして爆心地から2キロ以内の木造家屋が消滅した。
爆風によって鉄筋コンクリートの家屋も破壊された。
爆発の後、巨大なキノコ雲があがり、やがて雨となった。
それは放射能をたっぷりと含み、ススやチリを含んだ黒い雨だった。
わずか一発の原子爆弾で12万名が死亡し、3万名が重傷を負った。
これには軍関係者は含まれていない。
当時の広島市には軍関係者4万名を含めて、35〜36万名がいたと推定され(昭和20年8月10日広島市役所調査)、実際の死者はこれを大きく上回り、20万名という推定もある。
8月9日午前11時2分、今度は長崎市空中でプルトニウム型原爆「ファットマン」が炸裂した。
現在の長崎平和公園内の落下中心地上空の500mの地点で爆発した。
当時、死者3万5千名、重軽傷者4万名と概算されたが、その後の調査で死者7万4千名以上が確認された。
広島に比べて、被害者数が少ないのは、長崎市内には小山が縫うように張っており、そのため一時被害を免れた人々が多くいた為といわれる。
余りにも大きな惨禍であったが、原爆投下の報が全世界に伝わると、中国や韓国、フィリピンなどでは喝采と拍手が起こったという。
日本軍に散散痛めつけられてきたという欝憤を晴らしたと考える人が多かったのだ。
日本政府は珍しくスイス政府を通じて、「非人道的兵器の使用を放棄すべき」だと米国に抗議した。
が、原爆投下による想像を絶する被害は9日のソ連侵攻とともに、ポツダム宣言受託という「御聖断(天皇陛下のご決断)」を引き出す一つの要因となった事は否めない。