聖武天皇

奈良の大仏を造立 聖武天皇

聖武天皇

何度も遷都を繰り返す間、国分寺と大仏を建てる

聖武天皇(701〜756年)は奈良時代の第45代天皇。文武天皇の皇子で、母は藤原不比等の娘である宮子だ。不比等の娘である光明子を妃とした。
天皇に即位後は飢饉などの災いから国を守るために仏教の普及に尽力を尽くす。国分寺の制度を整えた後、盧舎那仏の造立を発願した。
国分寺を創建する間、恭仁京から難波宮、紫香楽宮へ平城京と幾度もの遷都を行ったと云われる。

祖母と叔母の後を継ぎ、天皇となる

父の文武天皇が崩御した時、首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)首皇子はまだ7歳であった。
そのため、父の没後にはすぐ即位できなかった。
幼い首皇子に代わり、まず祖母の元明天皇(げんめい)が、次に叔母の元正天皇(げんしょう)が即位して政務を行った。(二人とも女性天皇である)
そして首皇子が24歳になった年に元正天皇より譲位され、聖武天皇として即位した。
聖武は母が藤原不比等の娘であり、さらに藤原氏の光明子を妃とする事になり、藤原氏との深い結びつきを持つこととなった。
光明子との間に基皇子(もといのみこ)を授かるが、不幸にも基皇子は生後1年に満たずに亡くなってしまったのである。


即位後は多くの苦悩が待ち受ける

聖武が即位した頃、朝廷では光明子の立后(りっこう:三后(皇后・皇太后・太皇太后)を正式に定めること)を巡って対立が起こっていた。
藤原氏の四兄弟と長屋王(ながやおう)の対立である。
長屋王は天武天皇の孫にあたる皇族の一人で、当時の政権の首班であったが、この対立が争乱にまで発展してしまい自害に追い込まれた(長屋王の変)。
この争いに勝利した藤原四兄弟は、一族内の女性を皇后にすることを目的としていたが、乱に勝利したことで目的は達せされるかと思われた。
しかし、乱の後、疫病の流行により、藤原四兄弟は次々に死去してしまったのである。
この疫病の流行は、先の乱で自害に追い込まれた長屋王の祟りと恐れられ、多くの人が恐怖した。
多くの死者を出してしまった事で朝廷が不安定な中、さらに九州の太宰府で「藤原広嗣の反乱(ふじわらひろつぐのはんらん)」までもが起こってしまう。
聖武天皇は愛する我が子を早くに失ってしまったばかりか、度重なる争乱と疫病、その結果に発生した大飢饉などにとても頭を悩ませるのであった。

藤原広嗣の乱『山川 詳説日本史図録』より引用

藤原広嗣の乱、広嗣軍と朝廷軍の動き『山川 詳説日本史図録』より引用

仏の助けを求め、大仏を造営

聖武天皇は、日本各地に国分寺を創建し、総国分寺として大和国(現在の奈良県奈良市)に東大寺を造営、そして本尊として巨大な大仏の造立を発願した。多くの難題を解決する為に、神仏の力を借りる決意をしたのだ。
これらの造営を行い災いを治めるまでの期間、聖武天皇はまるで数多の災いから逃れるかのように何度も遷都を繰り返しており、その五年後に平城京へ還ったのであった。
平城京へ還った後、聖武天皇は独断で出家までしてしまった為、娘の阿部内親王が孝謙天皇として即位する事となった。
そして、その四年後に聖武天皇は崩御した。

出典・参考資料(文献)

  • 『一冊でわかるイラストでわかる図解日本史100人』成美堂出版 監修:東京都歴史教育研究会
  • 『山川 詳説日本史図録』山川出版社 編者:詳説日本史図録編集委員会

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