インパール作戦

インパール作戦

1944年3月8日から7月3日にかけてイギリス領インド帝国ビルマ州インパールで行われた戦い。交戦勢力はイギリス・インド帝国連合軍で、日本側の敗北に終わった。
援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦である。
補給線を軽視した作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。

スバス・チャンドラ・ボーズ率いるインド国民軍1個師団

スバス・チャンドラ・ボーズ率いるインド国民軍1個師団

チンディット挺進部隊の侵入

昭和18年(1943年)2月、約3000人の英印軍が中部ビルマに忽然と現れ、一ヶ月半にわたって戦線をかき回した。
ウィンゲート少将が指揮するチンディットという挺進部隊だった。

アラカン山脈を踏破してビルマに侵入したチンディット部隊

アラカン山脈を踏破してビルマに侵入したチンディット部隊

連合軍の戦術に脅威を感じた日本軍

捕虜から聞き出した進撃法に日本軍は驚愕した。
彼らはインドから3000m級のアラカン山脈を越え、チンドウィン河を渡って来たというのだ。
補給は、必要に応じて全て空中から投下されたという。
もともと、ビルマ〜インドの国境は大軍が踏破出来るような地形ではない。
連合軍がその戦法を全線にわたって実施すれば、ビルマ防衛は成り立たない。
ビルマ制圧以来、比較的平穏に推移した第15軍はにわかに緊張した。

インパール作戦の直前ビルマに進攻したウィンゲート空挺部隊への空中補給

インパール作戦の直前ビルマに進攻したウィンゲート空挺部隊への空中補給

無理のある先制攻撃に出る日本軍

チンディット侵入騒ぎの最中に第15軍司令官に就任した牟田口廉也(むたぐちれんや)中将は、その基地インパール(インド・アッサム州の首都)の攻略占領を決意した。

第15軍司令官 牟田口廉也中将

第15軍司令官 牟田口廉也中将

最後まで補給問題でもめたインパール作戦

牟田口軍司令官の執拗な要請に、大本営がインパール作戦の準備命令を出したのは昭和18年9月だった。
しかし、作戦開始は翌19年3月にずれ込んだ。

作戦部隊に補給物資を届ける方法がなかった

作戦が半年も遅れた最大の理由は、補給が続かないからやるべきではないという意見が多かったからである。
勿論、日本側にも物資はあった。
しかし、チンディットが実施したように空中投下で補給するには飛行機が無かったのだ。
当時、全ビルマで戦闘機・爆撃機は100前後だった。
自動車はごく一部にしか使えず、人力に頼るにはあまりにも険しい地形であった。

インド・ビルマ国境の防空部隊と英軍から奪った武器

インド・ビルマ国境の防空部隊と英軍から奪った武器

泰緬鉄道建設に動員されたオーストラリア軍捕虜

タイ・ビルマ鉄道建設に動員されたオーストラリア軍捕虜

大本営も反対した無謀な作戦

その事を、上級機関のビルマ方面軍、南方軍、大本営の作戦参謀が等しく感じていた。
作戦に参加する三個師団(第15、第31、第33師団)全ての師団長も、補給困難を理由に懐疑的で、しばしば第15軍司令部と対立していた。

しかも、このときビルマは攻められていた!!

実を言えば、インパール作戦開始の頃は、もはや85000もの兵力を動員して大攻勢を掛けるような戦況ではなかった。
北ビルマのフーコン谷地では、スティルウェル中将指揮の米中連合軍が、第18師団の陣地を次々に突破して、ミートキナに迫ろうとしていた(5月に奪還された)。
さらに、インパールに出撃しようとする3日前、グライダー100機、ダゴダ輸送機600機で約9000人のウィンゲート空挺部隊が中部ビルマに降下、ビルマ自体が攻められていたのだ。

しかし、それでも大本営は牟田口司令官のインパール作戦強行を許可してしまった。

3方面から一斉に進撃開始

昭和19年3月8日から15日にかけて、三個師団は一斉に進撃を開始した。

  • 第33師団が南のカレワ、ヤザギョウからインパールの背後を衝く。
  • 第15師団がその北、タウンダットからアラカン山脈を真横に突っ切り、インパールの側面に出る。
  • 第31師団がさらに北のホマリン、カウンマンあたりから発して、インパールの北方コヒマの要衝を攻略し、コヒマ〜インパール街道を遮断する。

要約すると、こういう作戦だった。

食糧を牛に運ばせた

作戦の目標期間は3週間、各自が2、3週間分の米を背負い足りない分は各師団数先頭の牛を引き連れての出撃だった。
牟田口はジンギスカンの故事に倣うと自慢していたが、牛はチンドウィン河で大半が溺れ死に、生きながらえたものもアラカンの山を越える事は殆ど出来なかった。

無茶な作戦であっても、邁進した日本兵

こうした劣悪な条件下とはいえ、第33師団は待ち受けていたインド第17師団を包囲殲滅するところまで追い詰めており、第15師団の一部は僅か2週間でインパールの北45キロのミッションまで進出した。
一番北から進んだ第31師団の宮崎支隊(宮崎繁三郎少将指揮)は4月5日コヒマに突入し、約2カ月にわたってインパール街道を遮断した。

南からインパールを目指した第33師団

南からインパールを目指した第33師団

補給の途絶で餓死者が続出

非の打ち所がない英軍の軍略

一ヶ月程の間に各師団の一部はインパールの近くまで進撃し、形の上ではインパールを包囲する事が出来たのであった。
しかし、これは英第14軍司令官スリム中将の作戦だった。
適当に日本軍と戦闘を交えつつインパール近くまで引っ張りこみ、補給線が伸びきったところで叩こうという作戦である。
インパール街道の遮断も、間断ない空中補給で殆ど痛痒を与えなかった。

まんまと罠にはまった牟田口軍司令官

それに気づかなかった牟田口軍司令官は、最前線から400キロも離れた「ビルマの軽井沢」メイミョーから、ただ前進のみを怒号した。
しかし、前線には予想通り、弾薬は勿論、食糧も殆ど届いていなかった
将兵は次第に飢え始め、赤痢に罹って衰弱していった。
タコツボに身を潜め、始まった雨季の豪雨に当たりながら、進むも退くもならない窮地に陥っていた。

悪化していく戦況に、崩壊する司令部

牟田口軍司令官と各師団長とは無線を通じて反目した。
牟田口は罵声に近い口吻で前進命令を繰り返し、戦意不足を理由に3人の師団長を次々に更迭した。
第31師団長佐藤幸徳中将の場合は、食糧のある所まで撤退すると明言して戦場を後にした。
陸軍始まって以来の師団長抗命事件である。

白骨街道が続く敗退行

作戦中止が遅れ、犠牲者が続出

実際には、遮断されたインパール街道が解放された6月初め、作戦の失敗が誰の目にも明らかになった。
数十台の軍用トラックが続々とインパールへ送り込まれた。
ただ、作戦中止の決定が7月にずれ込んだため、最前線に釘付けされた将兵は無意味で効果のない突撃を繰り返し、犠牲者を増やしていった。

白骨街道

撤退命令が出た時、殆どの将兵は食糧を持っていなかった
追撃する敵の爆撃を避けつつ、時にはわずかに点在する村落を襲って食糧を奪い、ジャングル内の草などを食べながらフラつき下っていった。
途中には力尽きて倒れた将兵が白骨となって累々と連なっていたという。

インパール作戦の犠牲者数

この作戦では少なく見積もっても50000、最大限65000名が死亡したといわれる。
ビルマでは全体で19万名が戦死した(主にフーコン・雲南の戦いとインパール作戦後の防衛線で)が、その1/4から1/3がインパール作戦の犠牲者だった。

レド公路開通を祝う米中軍

レド公路開通を祝う米中軍


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