ビルマ作戦(援蒋ルートの遮断)

ビルマ作戦(援蒋ルートの遮断)

1941年12月から1945年8月の終戦直前までかけてイギリス領ビルマ(現在のミャンマー)で行われた戦い。
交戦勢力はイギリス軍・ビルマ国民軍・インド国民軍と、イギリス軍・アメリカ軍・中華民国国民党軍軍で、日本側の敗北に終わった。
日本軍は一度はビルマの制圧に成功するも、その後の連合軍の反撃によって、ビルマのほぼ全土を奪回されてしまう。

なぜ、ビルマを攻略したのか

援蒋ルートの遮断

イギリスの植民地ビルマ(ミャンマー)への攻略は、「援蒋(えんしょう)ルート」の遮断が最大の狙いであった。
日中戦争が始まって既に四年半が経過していたが、蒋介石の指導する中華民国国民党軍は、非常に粘り強い戦いを続けていた。
日本軍は、この中国軍の強さは、米英が物心両面にわたって支援しているからだと、考えていた。
ビルマはのその「援蒋ルート」として最後に残されていたものだった。

ビルマ公路 毘明〜貴州の山岳地帯と軍需トラック

ビルマ公路 毘明〜貴州の山岳地帯と軍需トラック

膨大な軍事物資がビルマから中国へ

ラングーン(現ヤンゴン)に陸揚げされた物資はトラックに積み替えられ、北上してマンダレー、ラシオを経て中国雲南省に入り、サルウィン河を渡って昆明(コンミン)に運ばれた。
このルートは「ビルマ公路」と呼ばれていた。
ラシオまではともかく、それ以後の険しい山岳地帯にトラック二車線道路を建設する為、中国は延べ50万人を動員している。
日米開戦当時、このビルマ公路を通じて、一ヶ月に15000トン、10トントラックにして、1500台分の軍需物資が続々と昆明に輸送されていた。

北ビルマと中国雲南省を分けるサルウィン河に掛かる吊り橋「恵通橋」

ビルマ公路を巡り、対立する日米

開戦前、日本の航空隊はビルマ公路破壊の為、サルウィン河にかかる恵通橋(雲南省内のビルマと中国を繋ぐ唯一の橋)の爆撃を試みたが、果たせなかった。
アメリカは蒋介石の要望に応じて、ビルマ・中国の国境を防衛する「志願兵航空隊フライングタイガース(身分はカコム=中央飛行機製造会社社員)」を派遣し、昭和16年(1946年)7月、ビルマのキエード飛行場に進出した。
訓練を続けている内に開戦となったが、雲南上空を戦場として日米は「真珠湾攻撃」以前から既に、一触即発の状態だったのだ。

新たな補給ルート建設

日本軍のラングーン占領に備えて、新たな援蒋ルートが建設されつつあった。
それは、インドのアッサムを基点としてビルマ北部の国境に近いレドを通り、フーコン谷地に入り、ミイトキーナ、バーモ、ナンカンを経て昆明に通じる「レド公路」である。

レド公路とビルマ公路を結ぶ道路の建設を手伝うリス族の女性

レド公路とビルマ公路を結ぶ道路の建設を手伝うリス族の女性

ビルマの志士たち

戦線を拡大しすぎ、兵力不足に陥っていた日本

しかし、ビルマ作戦に充てる兵力の余裕は、開戦時の日本にはなかった。
何しろ、中国大陸には27個師団と10数個旅団の計80万の大軍を展開させており、満州(中国東北部、当時は満州国)の関東軍75万(対ソ連軍)と合わせると、中国全土に150万という兵力が釘付けにされていた。
ビルマ攻略を目的とした第15軍は創設されたが、開戦当時は殆ど兵力を持っていなかった。

ビルマの独立運動に目を付けた日本軍

そういう事を見越して、陸軍は昭和15年(1940年)頃から、ビルマで独立運動を続けている若い指導者に接触した。
折しもヨーロッパ戦線でナチス・ドイツに押された英仏軍35万がフランス北部のダンケルクから撤退したばかりの頃で、イギリスとて無敗にあらず、とビルマの反英独立運動は熱くたぎっていた。
日本軍はその独立運動のエネルギーを利用しようとしたのである。

三十人の志士

鈴木敬司(すずきけいじ)大佐を長とする謀略組織「南機関」が編成され、30名の若い独立運動指導者をビルマから脱出させ、南海島で指揮官としての軍事訓練を施した。
やがて彼らと共にビルマに入り、彼らを指導者とするビルマ軍を造り、ビルマ人の手で英軍を追放してもらおうとしたわけである。
そして、1941年2月に青年活動家グループ「三十人の志士」が結成された。
建国の父とされるアウン・サン(アウン・サン・スーチーの父)や、戦後のミャンマー政府の指導者であったネ・ウィンもその一人である。
ところが、マレー作戦が予想外に順調に進んでいる状況を見て、大本営は12月21日、早くもビルマ攻略を命令した。

ラングーンの無血占領

侵入するだけで大変だったビルマ

第15軍の第55師団と第33師団は、昭和17年1月末、相次いでタイ〜ビルマ国境を超えた。
バンコクの北ピサンロークから西進してラーヘン、メソートという小さな村を通過し、南部ビルマに入ったのである。
その間の、標高2000m級の100キロにわたる山岳密林地帯の道路は、象の通る道に等しいもので、両師団は約一ヶ月かけて自動車が通れる程度の応急道路を建設したのだった。
元々、イギリスはタイ国境の道路を閉鎖する政策をとり、タイ〜ビルマの本格的な陸路は何処にもなかったのである。

ラングーン爆撃

ラングーン爆撃 陸軍第3飛行集団と爆撃機87機で実施された最初の空襲

ジャングルを切り拓きながら、タイからビルマへ侵攻する日本軍

ジャングルを切り拓きながら、タイからビルマへ侵攻する日本軍

10万ものビルマ防衛軍

ビルマ防衛の英印軍は兵力30000の他に、開戦と同時に第17師団が編成され、日本軍のラングーン進撃を阻もうとしていた。
また、中国は第5、第6軍(共に三個師団相当)をはじめ総兵力約10万もの大軍を中部ビルマに派遣しつつあった。
その遠征軍は米軍のスティルウェル中将が指揮していた。

イギリス戦車隊に圧倒される日本軍

2月末、第33、第55の両師団がシッタン河へ進出した時、防御についていた第17師団の一部が状況判断を誤り、橋を爆破して退却した。
そのため3000余の主力部隊が対岸に取り残され、大部分が捕虜となる失態も起こった。
シッタン河を渡った日本軍は初めて優勢な英戦車隊に遭遇、第55師団の戦車隊が果敢に攻撃したが、その速射砲は役に立たず、M3戦車は7cm山砲弾も跳ね返してしまう程で、装備の優劣を見せつけられる事になる。
その劣勢を夜襲と肉弾戦法で切り開き、3月7日ペグーを占領した。

英印軍によって破壊されていた援蒋物資

既に撤退していた英印軍

既にラングーンの英印軍はその日(3月7日)に同市を放棄して撤退しており、8日、第33師団がラングーン市に突入した時は、英印軍の姿はなかった。
ラングーンで日本軍を出迎えたのは市民の歓呼だった。
ビルマ独立義勇隊(略称BIA)を伴っていたからである。

ビルマ市民の歓呼に応える日本軍

ビルマ市民の歓呼に応える日本軍

戦友の遺骨と共にラングーン市へ入る日本軍

戦友の遺骨と共にラングーン市へ入る日本軍

ビルマ独立義勇隊(BIA)

ビルマ独立義勇隊(BIA)

ビルマ全土の制圧

すぐに認められなかったビルマ独立

海南島で軍事訓練を受けたビルマの志士たちは南機関と共にバンコクに渡り、同時でビルマ人有志を募って、BIA結成式を行った。
最初は僅か200名だったが、ラングーンに入る頃には、6000名程に増大していた。
日本軍の本格的なビルマ侵攻はないと聞かされていたBIAは、モールメンで臨時政府樹立を宣言する予定だったが、既に日本軍が軍政を開始しており、それどころではなかった。
ラングーンに入った直後、南機関とBIAは独立を強く主張したが、第15軍は認めなかった。
BIAと日本軍との間には感情的な対立が生じたが、南機関員の必死な説得で、彼らは当分、日本軍を信じる事になった。

日本の制海権が拡大

BIAの下に結集した民衆は、その後の追撃戦で補給や情報、あるいは渡河作戦などで日本軍の陰になって作戦を助けた。
3月中旬、日本陸海軍はアンダマン島を占領、同時にインド洋作戦を実施して空母「ハーミス」を撃沈するなど、セイロン島に根拠地を持つインド洋の英東洋艦隊を駆逐した。
こうして、シンガポール〜ラングーンの海上輸送が可能となった。

撃沈される英空母「ハーミス」

撃沈される英空母「ハーミス」

ビルマ制空権獲得

新たに第15軍に配属された第56師団と第18師団は海路ラングーンに到着、ただちに、既に追撃戦に移っていた第55師団と第33師団を追った。
ラングーンに陸軍第三飛行集団が進出し、ビルマ上空を制圧した。
加藤建夫中佐の、いわゆる「加藤隼戦闘隊」が活躍したのもこの時期である。

進軍を続ける日本軍

連合軍は、トングーで中国軍が頑強な抵抗を示したほかは、どちらかといえば、適当に抵抗して退却を続けていた。
日本軍は、中部ビルマのマンダレーで一大決戦を想定し、第56師団などは、その退路を断つため、マンダレーよりはるか北のラシオまで突進した。

鉄道終着点ラシオから毘明までの約1250キロの道路を建設

鉄道終着点ラシオから毘明までの約1250キロの道路を建設

あくまで軍を温存する英印軍

こうした戦況にあって、英印軍司令官アレキサンダー大将(ダンケルク撤退の総指揮官でもあった)はビルマからの撤退を決定、総退去を始めた。
その後の戦闘は勢いに乗って追撃する日本軍と、東のインドか西の雲南省に退却する連合軍との競争が各地で演じられた。
夜間歩いている兵隊を拾い上げてトラックに乗せ、明るくなってよく見たら中国兵だったという話すら残っている。

エナンジョン油田を攻略する日本軍

エナンジョン油田を攻略する日本軍

マンダレー付近の日本軍

マンダレー付近の日本軍

中国は自らビルマ公路を断った

10万の中国軍も半分はフーコン谷地を通ってインド領に逃げ込み、半分は恵通橋を渡って自国に退いた。
中国軍は自ら恵通橋を破壊し、ビルマ公路の生命線を断った。

ビルマは制圧しても、補給ルートを遮断出来なかった

第15軍は5月18日、全ビルマの制圧が完了した事を南方軍に報告した。
これで、長年の念願だった「援蒋ルート」は完全遮断されたはずであったが、そうはならなかった。
連合軍は、インド東部アッサム州のチキンスキヤからヒマラヤを越え、昆明への空輸を開始したからである。
その量は月100トンという小規模のものだったが、翌昭和18年(1943年)夏頃には月3000〜4000トン程度まで増強されたのだった。

ビルマを奪回される日本軍

連合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、反撃に出る。
イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蒋ルートの回復を主な目的とした作戦であった。
日本軍はインパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、作戦は惨憺たる失敗に終わってしまう。
連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回した。


↑ページTOPへ