島民を巻き込んだ沖縄戦

島民を巻き込んだ沖縄戦

目次

1945年3月26日から6月23日にかけて沖縄本島、及び周辺島嶼、海域で行われた戦い。
太平洋戦争において、日米の最大規模で最後の戦闘となった。
交戦勢力はアメリカ・イギリスら連合国軍で、日本軍は敗北する。
沖縄には多くの民間人らが住んでいたため、非戦闘員を巻き込む悲惨な戦場となった。
この戦闘により沖縄は以後、1972年の沖縄返還まで、アメリカの占領化であった。

壕の中から救出された母子

米軍上陸後間もない4月上旬、壕の中から救出された母子

昭和20年のエープリルフール

米軍第一陣が沖縄に上陸

復活祭の日曜日、昭和20年(1945年)4月1日朝、沖縄・宜野湾は晴れ、気温24度、東北東の弱い風が吹いていた。
嘉手納(かでな)、読谷(よみたん)両飛行場の正面海岸に上陸した米軍16000人(第一陣)は、「敵はどこだ」と緊張の限りを尽くして身構えていた。
一時間たっても日本軍陣地からは反撃の銃砲声は聞かれなかった。
静まり返る浜辺に橋頭堡(きょうとうほ:橋を守る為の砦)を築きつつ、やがてこの日が「エープリルフール」である事に気づき、大演習気分にひたり始めた。

艦砲射撃を行う米艦船

渡嘉敷島へ艦砲射撃を行う米艦船

保護された慶留間島の住民

保護された慶留間島の住民

地下陣地を建築していた日本軍

硫黄島が米軍に攻略されたとき、守備隊は上陸後数時間を経て、初めて米軍に対して砲撃を始め、大きな損害を与えた。
だが、沖縄の第32軍(軍司令官・牛島満中将。兵力約86000人)は、堅固な地下陣地に息を殺していつまで見守っていた。
地下陣地はコンクールで造ったものもあれば、天然の洞窟もあった。
また沖縄特有のガマ(一族の墓。内部が洞窟のように広い)を利用したものもあった。

首里城の地下陣地

第32軍は軍司令部を首里城の地下陣地(深さ30m、奥行き1000m)に置き、主力部隊もその付近に重点的に配置していた。
米軍が首里付近に進撃するに従い、地下壕から小部隊ずつ飛び出して阻止するという戦法である。
そして、米軍を主力が待ち構える首里付近まで誘導し、そこで一気に攻勢に出るという作戦。

本土決戦に向けた時間稼ぎ

こういう作戦が取られたのも、沖縄防衛線(捷二号作戦)は出来るだけ長く戦って米軍の犠牲を多くし、来るべき本土決戦(捷三号作戦)を一日でも遅らせる使命を担わされていたからである。
上陸地点に近い二つの飛行場も占領されるに任せ、海岸に橋頭堡を築いても、次々と武器弾薬と兵員が揚陸されても、全く攻撃しなかったのはその方針に基づいていた。

米軍の進軍をも、黙殺する司令部

最前線に配備されていたのは第62師団だったが、砲撃を繰り返しては戦車を先頭に押し寄せる米軍に業を煮やし、軍砲兵隊の射撃援護を要請した。
しかし、軍司令部は応じなかった。
一旦、砲撃を始めると位置が分かり数刻を経ずして壊滅させられるのは明らかだったからだ。
やむなく最前線の部隊は小部隊で抵抗しつつ、予定のとおりに南に下がっていった。

米軍の沖縄上陸

持久戦か積極攻勢か

那覇海上に米軍艦隊が接近

しかし、上級司令部である第10方面軍(在台湾)から積極的反撃を強く支持されて方針を一転、4月7日夜、総攻撃に転じて米軍を北方に押し返す事になった。
だが、この総攻撃も那覇南方海上に米軍空母3隻、輸送船50隻接近中という報告で、直前になって取り消された。
主力が首里付近から飛び出した後に新たな上陸部隊が首里を背後から攻略する恐れが大きいと判断されたのである。

米軍が上陸

米軍が上陸する様子

次々と現れる米軍艦隊

しかし、この総攻撃中止の命令は間もなく変更され、「8日総攻撃」がまた命令された。
第10方面軍の強い要求に従ったというのだが、この命令も、またまた取り消されてしまう。
さらに、米軍の戦艦3隻、輸送船90隻が那覇南方海上に出現したというのだ。
この段階で既に、米軍から沖縄を守り抜くのは不可能である。

追い詰められた戦場ほど、司令部の意見が分かれる

こうした、軍司令部の「持久か、攻勢か」をめぐる方針の変更は、沖縄戦に終始見られた特徴だった。
持久を目的として陣地を構築し、兵力を分散配置していた第32軍であったが、持久戦よりも積極攻勢に出るべきだという意見は長勇(ちょういさむ)参謀長をはじめ、軍司令部内の主流であり、持久戦こそ沖縄防衝軍の取るべき道だとして一歩も引かなかったのは八原博通高級参謀(作戦主任)だけだった。
このように軍司令部の作戦方針がぐらつく中で、最前線では必死の抵抗戦で米軍の進出を阻んでいた。

医療施設・病院船も整っていた米軍

約10日間の日米両軍の死傷者はそれぞれ2279名(日本)と2600名(米軍)で米軍が多かった。
戦死者こそ1174名(日本)と475名(米軍)で日本軍が多かったが、米軍のように医療施設が整っていたならば、助かった者が多かっただろうと推測される。
米軍は、1万トンクラスの病院船を6隻沖合に浮かべ、輸血用の血液も大量に用意していたのだった。

米海兵隊

那覇の北3キロの地点の、米海兵隊ら

米軍は日本軍の戦い方をよく研究していた

4月12日夜、長参謀長は八原作戦参謀の主張を押え三たび積極攻勢に出た。
薄暮、軍砲兵隊が初めて射撃を実施し、2500発を米軍最前線に撃ち込んだ。
夜襲には後方の守備についていた第24師団の一個連隊の一部も参加したが、進撃路が分からずウロウロしている間に照明弾に照らされ、集中砲火を浴び損害が続出した。
他の部隊もおおむね照明弾の下、集中砲火を浴び、全滅する大隊も出て、大損害を被った。

持久戦態勢へ戻る

米軍の反撃が的確だったのは、捕虜から既に「信号表」を入手しており、その日の夕刻打ち上げられた日本軍の信号弾の色と形によって、全線夜襲をキャッチしていたからだった。
部隊はまた、元の持久態勢に戻った。

米軍の総攻撃

緒戦は善戦する日本軍

最前線から首里まではせいぜい10数キロの距離である。
第62師団は当初の最前線陣地で頑強に米軍を阻止していた。
攻めあぐねた米軍は4月14日から4日間、地上攻撃をなかば休止し、前線部隊に武器弾薬を集中した。
その間、空爆(延べ905機、爆弾482トン)とロケット弾(3400発)と機関銃砲(70万発)を日本軍陣地に集中した。

米軍の凄まじい攻撃

19日、20日の両日にわたり米軍は総攻撃を始めた。
324門という各種大砲を並べ、40分間に19000発を日本軍陣地に撃ち込み、航空部隊がロケット弾やナパーム弾を投下した。
まさに「鉄の暴風」(戦後、同名の沖縄戦史が出版された)で、岩は砕け、大木は裂け、山容は形を変えた。
それが終わると戦車を戦闘に歩兵部隊が進む。
米軍はこの日から火焔放射器を携帯していた。

日本軍が取った恐ろしい反撃

これに対して守備部隊はどう対処したのか。
嘉数(かかず)とう陣地では30両の戦車に対して各自が爆薬箱を腕に抱えて体当たりを敢行し、22両を擱座(かくざ:戦車を動かなくさせる事)させてしまった。
和宇慶(わうけ)という陣地でも一個中隊(約200人)全滅と引き換えに、戦車5両で進出した米軍を撃退した。
棚原という陣地は二個大隊(約1000人)程の戦力で一個連隊(約3000人)を半減させる程の力戦だった。

戦車に対して爆薬箱を抱えて体当たりする日本兵

戦車に対して爆薬箱を抱えて体当たりする日本兵

後退を余儀なくされる日本軍

しかし、当然このような玉砕戦法は味方戦力の犠牲の上になされたもので、補充のない日本軍がジリジリと後退した事は言うまでもない。
四月末になると第62師団の兵力は半減した。

米軍の激しい攻撃に、総攻撃を決意する日本軍

5月4日、第32軍はこれまでの持久作戦を大転換し、総攻撃を掛けた。
米軍のあまりの激しい砲弾の雨に、怒り心頭に発し、少人数で飛び出してはネチネチと攻める持久戦法に嫌気がさした、というのが真相だった。
そこでも八原作戦主任は、攻勢の無謀である事を主張したが、司令部の空気を変える事は出来なかった。

日本軍の敗退

日本軍の総攻撃

船舶工兵隊(本来は舟艇で上陸部隊を運ぶ専門部隊)は米軍の背後に逆上陸を試みた。
砲兵隊は13000発の砲弾をぶち込んだ。
これまで最前線に出る事のなかった第24師団の二個連隊は左右に分かれて幸地と棚原の陣地(米軍占領)に突進した。
戦車第27連隊も初めて出陣し前田南側高地という陣地を目指した。
独立混成第44旅団は首里北東に進出した。

総攻撃も、米軍には通用しなかった

米軍は姿を現した日本軍に対して、戦車で蹂躙し、砲撃を集中し、自動小銃を乱射した。
部隊が越えなければならない地点では「弾丸の河」を作り、進撃を阻止した。
こうして攻略すべき米軍陣地までたどり着けないまま、全滅する部隊が続出した。
戦車部隊は砲弾でえぐられた大きな無数の穴に行く手を阻まれた。

総攻撃中止

夕刻、総攻撃は中止された。
地上に出て、正面から米軍と渡り合う戦闘は、もはや日本軍には出来ないという事があまりにもはっきりしたのだった。

いたずらに戦力を減らした日本軍

第32軍の戦力は、第62師団が1/4、第24師団が3/5、独立混成第44旅団が4/5にまで低下した。
逆に総攻撃の戦果は全くなかった。

米軍に首里が包囲される

この総攻撃から3日目の5月7日、同盟国のドイツが降伏した。
ますます勢いを得た米軍は首里を三法から包囲した。
日本軍には5万という将兵が残っていたが、もう役に立つ武器弾薬が残されていなかった。
大部分が傷つき、腹をすかしていた。

首里から撤退する日本軍

5月末、沖縄の梅雨は終わりに近づいていた。
折からの豪雨を衝いて各部隊(現存3万から5万といわれる)は首里を撤退、軍司令部は島の南端の摩文仁(まぶに)まで下がった。

首里城陥落後、星条旗を掲げる米兵

首里城陥落後、星条旗を掲げる米兵

首里付近の教会で戦闘中の米兵

首里付近の教会で戦闘中の米兵

沖縄島民を襲った悲劇

兵隊さんを信じていた島民たち

数万の県民が日本軍と行動を共にした。
彼らは兵隊さんと一緒の方が安全だと信じていたのだ。
その群れを米軍が追撃した。

島民たちを襲った過酷な現実

各地で自然洞窟の奪い合いが始まり、県民と部隊が同じ壕の中に身を潜めるという事も珍しくなかった。
赤ん坊の泣き声を制せられて、母親自ら嬰園の口と鼻を押え窒息死させたという悲惨な光景が見られたのもこの頃だった。

壕の中から救出された少女

壕の中から救出された少女
日系2世の海兵隊が、水筒で水をあげている

沖縄県民、かく戦えり

多くの若い男女が戦場に配属された

沖縄戦は県民の耕地や住んでいる場所で戦われた。
各部隊には県民男子約25000名が防衛隊あるいは義勇隊の名目で配属された。
その中には中学上級生、師範学校生徒を中心とした鉄血勤皇隊1685名も含まれていた。
高女生の「ひめゆり部隊」(従軍看護婦、543名)も前線に配置された。
名称は那覇郊外の安里にあった女子師範と第一高女を「姫百合学舎」と呼んでいた事から付けられたという。
彼らのうち約20000名が戦場に倒れた。

戦闘に巻き込まれた島民たち

首里から部隊が撤退を始めた頃、首里や那覇付近の戦場には30万という住民が取り残されていた。
一部は軍と共に南に下がっていき、その追撃戦途上での犠牲者が非常に多かった。

米兵から携帯口糧を受け取る老婆

米兵から携帯口糧を受け取る老婆
微かに微笑んでいる

戦闘の被害者数

沖縄戦を通じた戦没者は18万8136名で、県民で亡くなったのは約12万2000名といわれる。
このうち軍人軍属2万8000名を除くと、住民は9万4000名にのぼる。
日本軍の死者は沖縄県出身の軍人軍属を含めて9万4000名であり、沖縄住民とほぼ等しい。

最後まで撤退せず戦い続けた部隊

那覇南方の小禄(おろく)に陣地を敷いていた海軍部隊(沖縄方面根拠地隊を中心に基地航空隊、飛行場設営隊、後方勤務部隊など)約9000名は米軍が同地一帯に進出しても撤退せず、10日間で約5000名の犠牲者を出しながら最後まで戦った。

大田実少将が残した言葉

指揮官の大田実少将ら海軍首脳は6月13日自決したが、その直前、大田は海軍次官宛に電報を打った。
それは、今度の戦いで沖縄県民が如何に献身的に作戦に協力してくれたかを細かに述べるとともに、「沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別の御高配を賜らん事を」と結んであった。

ひめゆり部隊の悲話

6月18日、動員を解除されたひめゆり部隊の看護女学生27名は、地下豪から脱出しようとした矢先、米軍の急襲を受けて全員即死してしまった。
現在、糸満市米須に建てられている「ひめゆりの塔」はその現場であり、この悲話は沖縄戦の悲劇を象徴するものとして、今日まで語り継がれている。

軍司令部の壊滅

ひめゆり部隊の悲劇が起こったその日、牛島軍司令官は自らの指揮を放棄した。
もう、各部隊との連絡も殆どつかなかったからである。
摩文仁の洞窟も22日ごろから激しい攻撃にさらされ、23日、長参謀長と共に自決した。

戦艦ミズーリと体当たり寸前の特攻機

戦艦ミズーリと体当たり寸前の特攻機

沈没する戦艦大和

沈没する戦艦大和

沖縄の米軍占領と解放

その後、終戦後まで戦った部隊が一部であったが、順次米軍の降伏勧告に応じて、約7000名が投降した。
戦後、米軍の沖縄占領は長く続き、日本復帰は昭和47年(1972年)だった。
>> 沖縄返還


↑ページTOPへ