マレー・シンガポール攻略戦

マレー・シンガポール攻略戦

マレー・シンガポール攻略戦は1941年12月から1942年1月にかけてイギリス領マレーやシンガポールで行われた戦い。交戦勢力はイギリス・オールトラリア軍で、日本側の勝利に終わった。

南方作戦の開始(東南・南アジア攻略)

日本陸軍は大東亜戦争(太平洋戦争)開戦と同時に、3つの大作戦を開始した。
1つはイギリス領であるマレー半島シンガポールの攻略、2つは同じくイギリス領であった香港攻略、さらにはアメリカ領であったフィリピン攻略である。
予定としては、これらの地域を占領した後、オランダ領東インド(現インドネシア(蘭印(らんいん)))を攻略占領して、大東亜戦争の当面の目的である石油資源を確保する事になっていた。※当時、日本はアメリカから石油輸出禁止措置を取られていた。
そして、さらに余裕があれば、イギリス領ビルマ(現在のミャンマー)に兵を進める事になっていた。

これらの作戦を遂行するために、南方軍(総司令官・寺内寿一(ひさいち)大将)が創設され、その下に次のような4つの「軍」が置かれ、作戦が分担された。

第14軍(本間雅晴中将)
フィリピン攻略
第15軍(飯田祥二郎中将)
ビルマ攻略
第16軍(今村均中将)
オランダ領東インド攻略
第25軍(山下奉文中将)
マレー・シンガポール攻略

香港攻略は、中国で作戦中であったシナ派遣軍第23軍の第38師団と重砲兵連隊が当てられた。
この他、アメリカ領グアム島の攻略に第55師団の歩兵第144連隊を主力とした南海支隊が編隊された。

これら広大な南方地域を一斉に攻略して、占領するという作戦を相称して「南方作戦」と呼んだ。

真珠湾攻撃より早かったコタバル上陸

昭和16年(1941年)12月3日、杉山元(はじめ)参謀総長から寺内寿一南方軍総司令官に対して、隠語電報「「ヒノデ」は「ヤマガタ」トス」が届いた。
ヒノデは開戦日、ヤマガタは12月8日の意味である。
翌4日早朝、17隻の輸送船団が海南島の三亜(中国最南端の島)を出港した。
待機していた第25軍の第5師団と佗美支隊(たくみしたい(第18師団の一部・佗美浩少将指揮))が、マレー半島の上陸地点を目指して出撃したのである。

部隊は、タイ領のシンゴラ、パタニ、英領マレーのコタバルに上陸、約1000キロのマレー半島を縦断して、シンガポールを背後から攻略しようとしていた。
それを100日でやり遂げるというのが目標であった。

シンガポールは英国の大軍港であり、大口径要塞砲(38p砲5門、23p砲6門、15p砲16門)が海上からの侵入に備えていた。
しかし、その要塞砲は殆ど海上方向に固定されていたから、背後のジョホール水道を渡ってシンガポールに攻め入ろうというのである。
英軍は万一に備えてマレー半島の要所要所に防御陣地を設け、イギリス人を指揮官としたインド人部隊(英印軍)を配置していた。
また、日本軍の進撃が始まると、オーストラリア軍もシンガポール経由で前線に配置された。

マレー上陸部隊を乗せた輸送船団のうち、佗美支隊の約5500人を乗せた3隻は12月7日午後11時55分にコタバル沖に投錨、ただちに上陸用舟艇に分乗して上陸を開始した。
高波で上陸は難渋し、さらに敵機襲来により3隻の輸送船は火災を起こし、うち1隻は沈没した。
それでも第一陣は午前1時30分(日本時間)上陸に成功。
これは真珠湾奇襲攻撃よりも1時間50分も早かったのだ。

コタバルに上陸した侘美支隊

コタバルに上陸した侘美支隊
マレー半島の東海岸を進んだ

コタバルにはインド第8師団が防御線を張っており、近くには飛行場があった為、当初から激しい抵抗が予想されていた。
日本軍は、その飛行場をまず占領して、航空基地をその地に前身させて、戦局を有利に導きたかったのである。

タイ領シンゴラには山下奉文軍司令官ら第25軍司令部と第5師団主力が8日午前4時過ぎ上陸した。
パタニへの上陸部隊(第5師団の一部)も大体同時刻ごろ上陸した。
第5師団だけで約25000名の兵力である。

当時、タイは純然たる独立国だったので、最低、日本具の領土内通過を認めるという協定を成立させる必要があった。
その交渉は、秘密保持のため12月8日午前0時の6時間前から開始するよう指示されていた。
親英的だったピプン首相が坪内大使とやむなく会見に応じたのは、日本軍がシンゴラとパタニに上陸を終えた後だった。
既に上陸部隊とタイ軍との小さな戦闘が起こっており、結局、タイ国は日本軍の領土内通過を認める協定にサインせざるを得なかった。

55日でシンガポール沖合へ

上陸部隊は殆ど休む間もなく、南進を始めた。
バンコクからクアラルンプールを経てシンガポールに至る鉄道は通っていたが、それは英軍によって各地で寸断されるだろうから使えない。
主力である第五師団は武器や弾薬を自動車に積み、歩兵は自転車に乗って進撃した。
タイとマレーの国境を超えると、英軍が要所に布陣している。
最初の難関はタイとマレーの国境を越えたあたりに構築してあるジットラ・ラインである。

ジットラ・ライン

22キロの縦深陣地で、トーチカと鉄条網が三段に張り巡らされ、地雷を敷節してあった。
その後方には第11師団の約6000名が、戦車90台、野砲・山砲60門、重機関銃百挺という装備で布陣していた。
それだけの防御と兵力で、日本軍の進撃を少なくとも2〜3カ月は食い止め、その間に増援部隊の到着を待つという戦略だったという。

そのジットラ・ラインに数十台の戦車や装甲車に分乗し、わずか600名ほどの兵力で突進したのが、佐伯挺進隊である。
常識では殆ど勝ち目のない陣地に突進して、わずか2日で打ち破った。
12月13日の事であった。
用意万端と整えて、何が何でもシンガポールを攻略するという日本軍の勢いと、適当に抵抗した後は退却して、シンガポールでの一戦に賭けようという英軍との戦略の差がよく表れていた。

英軍 東洋艦隊の壊滅

既に12月10日には、シンガポールを根拠地とする英東洋艦隊の中核、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が、マレー半島クワンタン沖で、海軍航空部隊によって撃沈された。
ある意味では、開戦3日目で、マレーとシンガポールの英軍勢力は軍事的な大きな根拠(東洋艦隊)を失っていたのである。

英東洋艦隊レパルス(上)とプリンス・オブ・ウェールズ(下)の最後

英東洋艦隊「レパルス(上)」と「プリンス・オブ・ウェールズ(下)」の最後

スリム殲滅戦

勿論、英印軍の抵抗が微弱だったとはいえない。
例えば首都クアラルンプールの手前カンパルの英印軍守備隊は、4日にわたって戦力の半分を失う程の激しい抵抗を示した。
また、その南のスリムでは第12インド旅団が激しく抵抗した。
戦車隊がこれらを蹂躙し、さらにスリム市街地に突入して第12師団司令部を砲撃して師団首脳部を殺傷し、合わせて各地の露営地を蹂躙した。
この戦いは「スリム殲滅戦」と称される程、惨たらしい戦いだったが、スリム全滅の報に接した首都クアラルンプールの英印軍は、日本軍侵入(昭和17年1月12日)の直前に総退却した。

速射砲で攻撃される日本軍戦車

速射砲で攻撃される日本軍戦車

この作戦には途中から、開戦前に南部仏印(ベトナム)に進駐していた近衛師団が、陸路南下して順次第25軍に入り、第5師団の後方から進んだが、クアラルンプール占領の後は第5師団と入れ替わり最前線にたった。

シンガポールに間近いジョホール州だけあって、抵抗は一段と激しくなったが、抵抗の後に退却するという基本戦略は変わりなかった。
それでも、ジョホールバル市手前のバクリでは、英印軍第45旅団を全滅に近い形で撃破したものの、攻撃にあたった大隊(約600名)は、大隊長を含む戦死266名、負傷106名の損害を出した。
ここだけでマレー作戦中の戦死者の13%を占めるという激戦だった。

ジャングルを切り開き、200を超える河川に応急の橋を架け、各地の守備隊と戦いながら日本軍がシンガポールの対岸ジョホールバルに達したのは上陸後55日目の1月31日である。

工兵隊が架橋を建設する様子

工兵隊が架橋を建設する様子

コタバル上陸の佗美支隊もマレー半島の東側を進撃して順次ジョホールバルに着き、その本隊である第18師団主力も1月22日コタバルに上陸、第5、近衛両師団の自動車で(第18師団には自動車はなかった)続々とジョホールバルに到着した。
こうして、50000を超える日本軍はシンガポール攻略の態勢を整え、ジョホール水道を渡河する日に備えた。
水道に架かる橋は既に退去した英印軍によって破壊されていた。

シンガポールの攻略

マレー作戦の当初から航空攻撃を担当した陸軍の第3飛行集団は、半島の英印軍陣地を始め、シンガポール空襲を繰り返していたが、陸上部隊の上陸に合わせて一段と攻撃を強めた。
2/3をスマトラ島攻略(この島のパレンバン油田などを占領するのが目的)に振り向けてはいたが、それでも重爆撃機68機、軽爆撃機40機を中心とする計162機が連日爆弾の雨を降らせた。

空爆で黒煙を上げるシンガポール市

空爆で黒煙を上げるシンガポール市
陸軍の第3飛行集団が爆撃した

ジョホールバルに陣地を敷いた砲兵隊は約20万発の砲弾を集中し、もっぱら石油タンクと四か所の飛行場を砲撃した。
砲弾は、タンゴラから鉄道輸送されたものである。

2月9日、3方向から渡河した第25軍は、各地で英印軍約10万と戦闘を繰り広げた。
戦いは標高180mのブキテマ高地、同130mのマンダイ高地の争奪にかかっていた。

先に砲弾がつきてしまった日本軍

日本軍は、紀元節にあたる2月11日に完全占領という目標をたてたが、ブキテマにおける英印軍の抵抗は強力で、一進一退という状況が続いた。
紀元節も過ぎ、2月15日になると日本軍の砲弾が底をついた
しかし、英印軍の砲撃は依然として衰えない。
軍司令部は一時的に攻勢を中止し、新たな砲弾が到着するまで攻撃を控えるべきかどうかを検討しようとしていた。

日本軍を救った幸運

そういうところへ、突然、英軍からの停戦申し入れがあったのである。
さっそく山下軍司令官とシンガポール守備部隊の総司令官パーシバル中将との会見が行われ、英軍は正式に降伏した。
英軍の降伏は、市街地の給水設備が大損害を受けた事と、陸軍の食糧が殆ど底を尽きかけていたという事情によるものだったという。

ブキテマ高地三叉路の日英両軍首脳

昭和17年(1942年)2月15日夕方、ブキテマ高地三叉路の北方、348高地の坂を、杉田中佐参謀の誘導で降伏会見場に向かう英軍首脳
右から、総司令官パーシバル中将、マレー軍政部長ニュービギン少々、白旗を掲げるワイルド少佐、英国旗を肩にするトランス准将

ブテキマのフォード自動車工場での、山下軍司令官とパーシバル中将の会見
英軍へ降伏を迫る、山下の「英軍は降伏するのかどうか。「イエス」か「ノー」で返事せよ。」という、言葉が知られる

敵性華橋

日本軍はその後、シンガポールを昭南市と改名し、同市在中の中国人の抗日分子を「敵性華橋」として徹底的に粛清した。
その数は占領直後から約1カ月で約6000名にのぼり、日本の敗戦までには19000名といわれる。
また、マレー半島全体では数万人といわれ、実数すらはっきりしていない。
戦後、これら「華橋虐殺」の最高責任者だった軍備司令官・河村参郎中将と野戦憲兵隊長・大口正幸大佐は戦犯として死刑となった。


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