バグラチオン作戦

バグラチオン作戦

1944年6月22日〜8月19日

バグラチオン作戦は、連合軍の第2戦線構築後(アメリカ参戦後)に開始されたソ連の対ドイツ反攻作戦。
ドイツが不可侵条約を破って一方的にソ連侵攻を開始したバルバロッサ作戦(1941年6月22日)から、ちょうど3年目の1944年6月22日に始まったソ連軍の大規模な反撃が始まった。
白ロシア(現・ベラルーシ)の奪還からソ連軍が西に進軍、ドイツ軍は大きく西(ポーランドまで)に後退した。
このドイツの劣勢を受け、枢軸国側陣営では分裂が起こり、反ドイツ包囲網が出来上がっていく。
バグラチオン作戦を簡単にまとめる。

連合軍がフランスに上陸し、ドイツ包囲網ができる

連合軍の第2戦線が構築された(1944年6月6日)

1944年6月6日、「オーヴァーロード」作戦によりフランスのノルマンディー海岸に連合軍が上陸
これによりスターリンが熱望していたソ連にとっての宿願たる第2戦線が構築された。
この第2戦線とはソ連から見た場合、自分たちの東部戦線が第1戦線ととらえていたという事である。

白ロシア(現ベラルーシ)奪還が最初の目標

ドイツのブッシュ元帥が白ロシアを占領していた

この第2戦線の構築に合わせて、スターリンは大攻勢の発起を要望。
そこでジューコフやヴァシレフスキーの両元帥らソ連軍首脳が研究した結果、エルンスト・ブッシュ 元帥のドイツ中央軍集団が展開する白ロシア(現ベラルーシ)の奪還を中心とすることが決まった。

ソ連の進撃を受け、白ロシアは北東南がガラ空きになっていた

白ロシアは、東部戦線におけるドイツ軍の主力たる中央軍集団が、約3年にわたって占領していた。
しかし、ドイツ軍集団の北翼の北方軍集団と南翼の南方軍集団のどちらもがソ連軍の攻勢を受けて大きく後退した。
その結果、白ロシアは、ソ連軍がバルコニーと称する東への巨大なバルジ(「突出部」の意)を形成していた為、ソ連にとっては奪還が比較的容易であった。

将軍の名に因んで「バグラチオン」と命名

この作戦は、北から南へ居並ぶ第1バルト方面軍、第3白ロシア方面軍、第2白ロシア方面軍、第1白ロシア方面軍が、轡を並べて進撃するものだった。
作戦名は、帝政ロシア時代、ナポレオンの侵略に対し善戦した将軍の名に因んで「バグラチオン」と命名された。

情報戦でソ連が勝利、騙されたドイツ

作戦を隠すためブラフを流したソ連軍、釣られたドイツ軍

だがドイツ軍も、ソ連軍が近く大攻勢を仕掛けてくるのではないかと判断しており、情報の収集に努力していた。
ところがソ連軍は白ロシアへの動きを隠し、バルト海方面への動きと、ウクライナ方面での動きを意図的に活発化させた。
その結果、両方面の不穏な動きを偵察などで知ったドイツ軍は、次のソ連軍の攻勢は、これらの方面で実施されるのではないかという誤った判断を下した。

バグラチオン作戦が開始(1944年6月22日)

1944年6月22日、ソ連軍は「バグラチオン」作戦を発動する。
熾烈な砲爆撃と空襲の後、延長約1000qの戦線で同軍が進撃を開始した。
きわめて大規模な攻勢だったため、ドイツ軍はそれに対応することができず、軍全体の統率がとれず、防戦や反撃が困難な事態に至ってしまった。

ドイツ軍は即座に撤退許可を求めたが

27日、エルンスト・ブッシュ元帥はヒトラーに、弱り切った中央軍集団の撤退許可を求めたが却下。
代わりに翌28日、ヒトラーは彼を罷免すると、後任にモーデル元帥を送り込んだ。

3週間で約700qを押し潰す

ソ連軍の物量は圧倒的だった

しかしドイツ軍の数倍にもおよぶ航空機、戦車、火砲を投入した大攻勢の前に、ささやかな同軍の防戦はほとんど意味をなさなかった。
そして、ソ連軍は作戦の発動から3週間ほどで、約700qもの距離を進んだ。

ポーランドまで戻されたドイツ軍

ソ連軍が次々と都市部を奪還

こうしてヴィテプスク、ヴィリニュス、モギリョフ、ボブルイスク、ミンスクなどの都市が順次奪還された。
さらにポーランドのヴィスワ川東岸までソ連軍は進出。
第二次世界大戦でドイツが侵攻・占領した土地の多くが解放され、ドイツとしては大きな後退であった。

壊滅状態となったドイツ軍

かつてドイツ軍の十八番だった電撃戦のソ連版ともいえる「バグラチオン」作戦により、死傷者約40万人、捕虜約11万人の大損害を被ったドイツ中央軍集団は、ほぼ壊滅に等しい状態になってしまった。

ソ連軍もおびただしい犠牲者を出す

しかし勝者のソ連軍も約18万人もの戦死者を出しており、ドイツ軍も果敢に防戦したことがわかる。

枢軸国側で分裂が起こり始まる

ルーマニアとブルガリアが降伏

ソ連軍は8月以降、バルカン半島とバルト三国へと進撃。
この攻勢は、枢軸陣営から離反する国を出すことになり、ルーマニアが8月28日、ブルガリアが9月24日にそれぞれ降伏。
両国とも、今度はかつての盟友たるドイツと戦っている。

ワルシャワで蜂起、しかしドイツに弾圧される

しかし一方で、8月1日にポーランドでが勃発したワルシャワ蜂起に、枢軸国側から支援に動く国は出なかった。
ポーランド国内軍はドイツ軍に制圧された。
15〜20万人の民間人が死亡、70万人がワルシャワから追放された。

フィンランドがソ連と休戦、反ドイツに回る

またフィンランドでは1941年6月以来、継続戦争が戦われていたが、1944年9月19日にモスクワ休戦協定を締結してソ連と休戦。
同協定の一環として、国内のドイツ軍を国外に撤退させるため、「昨日の友」との間でラップランド戦争が戦われた。

ベルリン陥落へ事態が動いていく

以降、ソ連軍はクールラントや東プロイセンなどへと進攻し、やがてベルリンの戦いを迎えることになる。


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