蘭印作戦

蘭印(オランダ領東インド)作戦

1942年1月11日から3月9日にかけてオランダ領東インド(現インドネシア)で行われた戦い。
日本はこの蘭印で産出される石油獲得を目的としていた。
交戦勢力はオランダ・オーストラリア、及びイギリス、アメリカで、日本側の勝利に終わっている。

石油の国・蘭印の攻略

広大なオランダ領東インド

蘭印(オランダ領東インド、現インドネシア)は、ジャワ島、ボルネオ島の大部分、スマトラ島、セレベス島、ニューギニア島西半分などからなる広大な地域で、その総面積はヨーロッパ大陸に匹敵する。

ボルネオ島の油田地帯占領後、修復後の写真

ボルネオ島の油田地帯占領後、修復後の写真

南方作戦の最終目標

南方作戦の最終目標は、この蘭印に産出する石油の獲得であった。
マレー・シンガポール攻略フィリピン攻略も、この蘭印攻略を円滑に実施する為の前哨戦だった。

最も大きな作戦はジャワ島の占領である。
オランダ総督府がバタビア(現ジャカルタ)に置かれ、人口6千万のうち4千万が集中するジャワ島を制圧して、初めて蘭印を獲得出来るのである。
しかし、肝心の石油基地はボルネオ島とスマトラ島に集中している。
そこでジャワ島攻略の前に小部隊を派遣して、両島の石油基地をまず占領した。

各拠点を、坂口支隊が次々と占領

ボルネオ島北端の小島タラカンやその南部のバリクパパン、さらにその南西のバンジェルマシンなどの拠点は、兵力約5000名の坂口支隊(坂口静夫少将指揮の混成第56歩兵団が中核)が、昭和17年(1942年)の1月から2月半ばに掛けて次々に攻略占領した。
蘭印の守備部隊はいずれも数千という兵力で、どの地区でも数日という抵抗の後、降伏した。

日本領だったパラオ

坂口支隊は開戦の三週間前に、パラオ(日本統治領で南洋庁があった。現在のパラオ共和国)に渡り、ジャングルを切り拓いて行軍する訓練を重ね、その日に備えていたのである。
ただ、占領はしたものの、油田や石油施設は大部分が破壊されていた。

日本人には、極めて過酷な環境

タラカンからバリクパパンまで500キロ、バンジェルマシンまではさらに450キロある。
そのうち数百キロがジャングルで、自転車装備の兵で最後まで自転車を持っていたのは工兵隊の1人だけだった。
また、八割がマラリアにかかったという話が残っている。

スマトラ島パレンバン油田地帯の獲得を目指す

破壊される前に油田や製油所を占領したいという強い希望から実施されたのが、スマトラ島のパレンバン油田地帯に対する空挺部隊(落下傘部隊)の作戦であった。
ここは年間400万キロリットル以上の石油産出があり、当時の日本の年間消費量にほぼ匹敵していた。

パレンバン降下作戦

パレンバン降下作戦

第三飛行集団挺進第二連隊の逸話

2月14日、約300名の落下傘部隊(第三飛行集団挺進第二連隊)は、敵の真っ只中に降下、高射砲による反撃や、地上に降りてからは戦車や装甲車を連ねて抵抗する蘭印守備部隊に阿修羅のごとく立ち向かったという。
ある軍曹は20人の敵に囲まれ、その十数人を倒し、最後は自ら眉間をピストルで撃ち抜いて果てたという話もある。
ある小隊(15名)は、四両の装甲車部隊(150名)と遭遇、ピストルと手榴弾だけで応戦し、遂に撃退した。

パレンバン石油基地攻略の落下傘部隊.1

パレンバン石油基地攻略の落下傘部隊.1

パレンバン占領

3月15日、第二次の落下傘部隊が降下し、さらに第38師団主力が、ムシ河から遡ってパレンバンに侵入、主要製油所を20日までに占領した。
ある製油所は守備隊の手で破壊されたが、ある製油所は無傷であったという。
ただ、製油所に仕掛けられていた爆破装置の大半は作動しなかった。
現地の作業員が蘭印軍の命令を実行しなかったためである。

パレンバン石油基地攻略の落下傘部隊.2

パレンバン石油基地攻略の落下傘部隊.2

嘘かホントか分らない伝説

インドネシアがオランダ領になったのは17世紀の初頭であった。
以来、各地に「天から白い衣をまとった神が舞い降りてきて、圧政から救ってくれる」という伝説が行きわたっていた。
この白い衣をまとったのが、落下傘部隊だったというのだ。

パレンバン石油基地攻略の落下傘部隊.3

パレンバン石油基地攻略の落下傘部隊.3

ジャワ島へ3か所から上陸

蘭印攻略の第16軍はさらに、第38師団の一部を東方支援としてアンボン島やチモール島を占領させ、オーストラリア軍の北上に備えた。
海軍は第三艦隊の高橋伊望中将を指揮官とする蘭印部隊を編成して各上陸部隊の輸送護衛に忙しかったが、海軍独自の作戦としては、セレベス島北部メナドへの落下傘部隊による攻略やケンダリー、マカッサル(いずれもセレベス島要地)占領など、蘭印作戦に必要な外郭要地の占領に努めた。

バリ島占領

また、第48師団の一個大隊兵力の金丸支隊が、バリ島(ジャワ島の東端、現在は観光地として有名)に上陸し、2月19日に占領した。
ここは飛行場があり、占領直後から海軍の航空部隊が進出して、本体のジャワ島攻略を援護する態勢を整えた。

こうして、徐々にジャワ島周辺への攻略占領を進めた後、本体がジャワ島へ三か所から上陸する事になった。

総兵力4万で分散上陸

本隊は、今村均軍司令官と共に第2師団がバタビア付近のジャワ島西端バンタム湾に、第38師団の一部で編成された東海林支隊がバンドンに近いエレタン海岸に、さらに第48師団と坂口支隊がスラバヤ付近のクラガン岬に、総兵力4万名が分散上陸するのである。

戦闘8日間 蘭印軍8万の降伏

スラバヤ沖海戦

上陸は3月1日、一斉に行われた。
クラガン岬上陸部隊は、その直前に連合国艦隊に遭遇、海軍の護送艦隊は輸送船団を退避させて迎え撃ち、米重巡洋艦「エクゼター」など、主力3隻を撃沈した。
スラバヤ沖海戦と呼ばれるもので、開戦以来初めての艦隊同士の戦いだった。
海戦に勝ったことで、部隊は予定通り、3月1日上陸を完了した。

バンカ海海戦、海軍航空隊(マレー部隊)

スラバヤ攻略とチラチャップ占領

第48師団は直ちにスラバヤ市の攻略に向かったが、一発の銃弾も撃つ事なく、白旗を掲げてきた蘭印軍の降伏を受け入れた。
坂口支隊は島を縦断してジャワ島中央部の南海岸にあるチラチャップを目指した。
国道で420キロの距離だが、途中に布陣するいくつかの蘭印軍と戦い、その部隊のトラックを奪い、ひたすら走り続け、3月7日にチラチャップに突入、その日のうちに占領した。
この間、支隊の戦死者は3名に留まった。

スラバヤ沖海戦、米英蘭連合軍艦隊に対する海軍の攻撃

スラバヤ沖海戦、米英蘭連合軍艦隊に対する海軍の攻撃

広大なバンドン要塞

ジャワ島のエレンタに上陸した東海林支隊は、まずカリジャナ飛行場を占領、ただちに第三飛行団が進出した。
支隊はジャワ最大の軍事本拠地バンドン付近に進出して、首都バタビアとの連絡路を断とうとした。
しかし、東海林支隊の兵力は4000名程に過ぎない。
それだけの兵力で、旅順要塞(日露戦争のロシア陣地、日本軍6万が死傷した。)の6倍の広さを持ち、約35000名で防備されているバンドン要塞は、簡単に落ちるとは思われなかった。

もともとバンドンの攻略は、東部のバンタム湾に上陸したはずの第二師団の担当だった。
しかし、第二師団を従えて上陸した軍司令部を乗せた輸送船が撃沈され、軍無線機が失われ、連絡が取れなかった。

思わぬ蘭印軍の停戦交渉

こういった事情により、東海林支隊は、道路封鎖よりバンドン要塞の一角にでも取りついて全員討死するつもり、遮二無二突撃を繰り返した結果、3月7日、遂にその一角を占領する事になった。
軍使が現れて停戦を申し込んだのは、その直後である。
蘭印軍は日本軍の進撃の速さと激しさからみて、主力の大部隊が後方に控えていると判断といわれる。

バタビア沖海戦

第16軍の今村軍司令官と第二師団は、3月1日未明、バンタム湾に上陸しようとしていたが、そこに前記スラバヤ沖海戦で撃沈を免れた米重巡洋艦「ヒューストン」と豪軽巡洋艦「パース」が輸送船団を攻撃してきた。
その動きは日本海軍によって早くから察知されており、護衛艦隊や付近を警戒中の艦艇10数艦がこの二艦を集中攻撃した。
バタビア沖海戦といわれるが、「ヒューストン」「パース」共に撃沈された。
この海戦で、蘭印付近の連合軍海軍は一掃され、日本軍はこの地域の制海権と制空権を確保した。

日本軍の失態

この海戦において、重巡「最上」が「ヒューストン」に放った魚雷が、同艦の下を通り抜け、今村軍司令官の乗った「龍城丸」に命中、沈没した。
今村中将も海中に投げ出され、三時間も海上を漂う事態になってしまう。
軍司令部の無線機が失われ、上陸部隊との連絡が三日間にわたって取れなかったが、各上陸部隊は予定通りに作戦を実施している。

バタビア・バイテンゾルフ制圧

第二師団はバタビアを3月5日に殆ど無血占領に近い形で制圧し、翌日バイテンゾルフ(宮殿があり、世界一の植物園で有名だった)に突入、その日のうちに占領を終えた。
蘭印軍には殆ど戦意が無かったという。

手を挙げて投稿するオランダ軍

手を挙げて投稿するオランダ軍

放送による降伏命令

チャルダー総督が蘭印軍の降伏を受け入れ、テルポーテン軍司令官の代理ペスマン少将がバンドン放送を通じて、降伏を命じた。
その後、オーストラリア軍、英軍、米軍も次々に降伏している。

蘭印軍捕虜

蘭印軍捕虜
蘭印軍8万、日本上陸部隊5万5千と、蘭印軍が上だったが、援軍の見込みがなかった

戦死者が非常に少なかった戦闘

ジャワ島作戦終了後の連合軍捕虜は、蘭印軍66000人、オーストラリア軍5000人、英軍10000人、米軍900人だった。
ジャワ作戦中の日本軍の戦死者は255人、戦傷は720であり、大作戦としては驚くほど損害が少なかった

バタビア(現ジャカルタ)市街地をゆく日本軍戦車

バタビア(現ジャカルタ)市街地をゆく日本軍戦車

自転車で移動する歩兵部隊「銀輪部隊」

自転車で移動する歩兵部隊「銀輪部隊」

バタビアの街に「大アジア万歳」のアドバルーンが掲げられた

バタビアの街に「大アジア万歳」のアドバルーンが掲げられた


↑ページTOPへ