家康の国際外交

家康の国際外交

征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた徳川家康は、日本の代表者として、外国との『平和外交』の推進に乗り出す。
家康が最初に手を付けたのは、秀吉が出したバテレン追放令によって関係が悪化してしまった南蛮との関係改善であった。
スペイン、オランダ、イギリス、明、朝鮮、東南アジア諸国など、『外交の教科書』が殆どなかった時代における、家康の国際外交をみてみる。

スペインとの関係を修復

サンフェリペ号事件で、スペインと関係悪化

豊臣秀吉が没した後、家康はすぐさまスペインとの関係改善に乗り出した。
慶長元年(1596)に秀吉が土佐に漂着したスペイン船サン=フェリペ号の積荷を没収し、スペイン人宣教師を処刑した事から、日本とスペインとの関係が悪化していたからである。
しかも、この頃はスペイン国王がポルトガル国王を兼ねていた為、ポルトガルとも疎遠になってしまっていた。

南米・メキシコまで統治していたスペイン

当時のスペインは海外進出を活発に行っており、植民地とした南アメリカで鉱山の開発を行っていた。
そこで家康は、鉱山開発と船舶建設の技術者を派遣してもらうとともに、スペイン領メキシコとの交易も認めてもらうつもりだったいう。

フィリピンで交渉が座礁

慶長3年(1598)、家康は捕えられていた宣教師ジェロニモ・デ・ジェズスをフィリピンに送って交渉させている。
しかし、当時のフィリピン総督は、日本とメキシコの通交が始まると、フィリピンの権益が侵害されると考えたようだ。
結局、スペイン側との交渉が、それ以上に進展する事はなかった。

フィリピン総督が日本に漂着

上手くいかないかと思われたスペインとの交渉であったが、家康に思わぬ幸運が訪れる。
慶長14年(1609)、フィリピン総督であったロドリゴ・デ・ビベロがメキシコに戻る途中に難破し、上総に漂着したのだった。
スペインとの通行を望んでいた家康は、ロドリゴを駿府に呼び寄せて引見し、帰国の為の帆船を用意させたのである。
因みに、このとき、京都の商人・田中勝介らがロドリゴに同行しており、これが日本人初の太平洋横断といわれている。

スペイン王から使節が派遣される

ロドリゴが家康から優遇された事を知ったスペイン国王フェリペ3世は、その答礼のため、セバスティアン・ビスカイノを使節として派遣している。
ビスカイノが駿府の家康の下を訪れたのは、慶長16年(1611)の事であった。
このとき、ビスカイノが家康に贈った時計が、久能山東照宮博物館に残されているが、その時計の文字盤の下には「1581年、スペインのマドリッドでハンス・デ・エバロが製作」と書かれている。

オランダ・イギリスとの国交樹立

スペイン帝国の覇権に陰り

家康はスペインとの交渉を積極的に進めようとしていたが、その頃ヨーロッパでは、1588年、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊をイギリス・オランダ連合軍が撃破した。
世界中に進出を果たしたスペインの覇権が揺らぎ始めていたのだ。
代わって、オランダがジャワのバタビア(現インドネシア)を拠点に、日本との通商に乗り出してくる。

オランダと正式に国交を樹立

慶長5年(1600)、オランダ船リーフデ号が豊後に漂着したのも、オランダのアジア進出の一環であった。
リーフデ号の航海長ウィリアム・アダムスと航海士ヤン・ヨーステンを引見した家康は、二人を外交顧問に迎えると、オランダとの外交を結ぶ。
これが日本とヨーロッパ諸国との正式な外交としては初であった。

オランダ総督より国書が届く

慶長14年(1609)、オランダ総督オラニエ公の国書を携えたアブラハム・ファン・デン・ブルークとニコラス・ポイクが来航した。
これを喜んだ家康は、オランダに朱印状を発給しているが、どこに着岸しても構わないと明記するなど、破格の待遇を与えるとともに、肥前の平戸に商館を置く事も認めたのである。

オランダ商館が長崎・出島へ

平戸に置かれたオランダ商館であったが、後に日本が鎖国時代に入ると、商館は長崎の出島に移される。
しかし、幕末に至るまで、オランダとの貿易は長崎で続けられる事になる。

イギリスとも一時、通商を結ぶ

慶長18年(1613)には、イギリス国王ジェームズ1世の国書を携えたジョン・セーリスも、日本との通商を求めて駿府を訪れ、家康に謁見した。
イギリスもオランダと同様、平戸に商館を置く事が認められたが、後に日本から撤退している。

カトリックを危惧した家康

なお、オランダとイギリスはいずれもプロテスタントの国であった。
その為、ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンは家康に対し、ポルトガルとスペインは、カトリックの布教をしながら征服していると訴えている。
そのため家康は、次第にポルトガル・スペインとは距離を置くようになった。
事実、九州では宣教師による寺社の破壊や、島原の乱における大規模なキリシタン一揆が発生している。

明との講和交渉

秀吉の朝鮮出兵で、明との関係は破綻

ヨーロッパ諸国との関係を築いた家康にとって、残る問題は文禄・慶長の役破綻した明・朝鮮との関係修復であった。
家康は、既に慶長5年(1600)、明に対しての通商の再開を求めているが、交渉が円滑に進む事はなかった。
明との通商の再開には重要な問題が立ちはだかっていた。

明は“日本の服属”を求めていた

明では、予てより日本が服属した場合のみ「勘合」による貿易を認める立場を取っていた。
秀吉が「日本国王」に冊封されたのも、その為である。

家康が明を武力で脅す

しかし、家康は“日本と明は対等”であるとの認識を持っており、「日本国王」として冊封されるのは承服できない事であった。
その為、対等な関係のままで「勘合」を求め、もし通商が認められない場合は福建・浙江省に出兵すると脅しているのだが、もちろん、明に認められる筈もない。

新たに清が台頭する

日本に服属を迫る明に対し家康は、現実に武力侵攻に乗り出している。
慶長17年(1612)には薩摩藩主・島津家久に、元和2年(1616)には長崎代官・村山等安に命じて、福建・浙江省への侵攻を命じているのだ。
しかし、結局、明との通称は再開できないまま、明そのものが清によって滅ぼされてしまったのである。

清との国交を持たぬまま、鎖国へ

清が建国された後も、中国船は以前にも増して日本に来航してきた。
しかし、江戸時代を通じて日本も鎖国時代の到来となり、清との間に国家間の公式の外交関係が構築する事はなかった。

朝鮮使節の来日

家康も朝鮮への出兵を匂わすが、、

文禄・慶長の役のもう一つの当該国である朝鮮に対しては、家康は、関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602)から講和交渉に乗り出している。
ただ、それは明に対する交渉と同じく、秀吉の遺児・秀頼がいる事を前面に出して、再び朝鮮へ出兵する事も辞さないと脅すものだった。

家康の柔軟な交渉術が光る

その一方で、家康自身は文禄・慶長の役の際にも朝鮮へ渡海していない事を強調するとともに、捕虜を送還する事も約束している。
いわゆる、アメとムチを使い分ける巧みな交渉術を展開した。

障害になる「日本国王」

その結果、朝鮮からは、条件付きではあるが、講和の受託が伝えられたのである。
条件というのは『「日本国王」として家康から先に、朝鮮へ国書を送る』というモノであった。
しかし、家康は自身を「日本国王」とは考えておらず、いうまでもなく「将軍より天皇が上」であった。
将軍の称号としては、「日本国王」を用いる事が出来ないと考えていたため、交渉は頓挫してしまう。

戦乱を避ける為、朝鮮より「回答使」が派遣

そうしたなか、講和の成立を命じられていた対馬の宗氏が、家康から朝鮮に宛てていた国書を改竄し、交渉をまとめてしまった。
後に、国書の改竄は露顕してしまうが、朝鮮としても、家康との交渉を拒絶すれば、再び戦乱になる事を危惧していた。
結果、慶長12年(1607)、朝鮮からは「回答使」という名目で使節が送られてきた。

日朝講和が成立

こうして、日朝の講和が成立し、以後は江戸時代を通じて、朝鮮からは「通信使」という名称の使節が送られる事になる。
将軍の代替りに来日したこの「通信使」だが、これは、信を通ずる使節という意味である。

東南アジア諸国との友好

家康は明・朝鮮以外のアジア各国に対しても、積極的に国書を送り、国交を開こうとしていた。
家康は国書のなかで、朱印船制度の創設について伝えているが、それは朱印船が海賊でない事を証明するとともに、当地での保護を求めていた。

明の海禁政策の為、さらに南下

朱印船は、明が海禁政策を執っていた為に接岸を許されなかった為、より南方の地域にまで渡航していたのだ。
主な地域として、安南(ベトナム北部・中部)・シャム(タイ)・カンボジア・チャンパ(ベトナム南部)・パタニ(マレーシア東部)などが挙げられる。
当該国の許可が得られた場合は、日本人が居住する日本町も建設していた。

複数の国家と国交を樹立

チャンパとパタニとは国交が開かれなかったものの、安南シャムカンボジアとは国交が開かれている。
なかでも、シャムとカンボジアからは使節も送られており、緊密な関係を築く事が出来たようだ。
そうした事もあり、朱印船の渡航地としては、安南・シャム・カンボジアが大半を占めていた。


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