秀吉の朝鮮出兵

秀吉の朝鮮出兵

1590年に天下統一を果たした豊臣秀吉であったが、晩年の秀吉に往年の面影はなかった。
利休・秀次の切腹事件を始め、明との対立に始まる無謀な朝鮮侵攻戦争を引き起こした。
この16世紀最大規模の戦争は、豊臣政権の崩壊を早める結果となった。

中国征服を目指した朝鮮半島出兵

明の冊封体制下にあった日本

日本は、室町時代1400年代初めに、足利義満が日本国王として明の冊封体制下に入り、勘合貿易を行っていたが、応仁の乱後は、室町幕府が弱体化して、戦乱の時代が続いた。

文禄の役 1592年

全国の大名らを臣従させる事で日本の統一を果たした秀吉は、東アジアの中華秩序に反発、かねて計画していた明征服を目論んでいたという。
そして秀吉は、対馬の宗氏(そう)を通じて朝鮮に服属を命じた。
しかし、朝鮮がこれを拒絶すると、1592年3月、肥前(佐賀県)の名護屋城(なごやじょう)に本陣を置き、朝鮮へ15万の大軍を送り込んだ。
世にいう「文禄の役」である。

日本軍は戦備の整っていない朝鮮軍を相手に連戦連勝し、首都漢城(かんじょう:現ソウル)を占領した。
この知らせに秀吉は、後陽成天皇を北京に移し、養子の秀次を明の関白にして、自分は寧波(ニンポー)で中華皇帝になるという妄想を抱いたといわれる。

武功を上げた豊臣恩顧の武将たち

日本軍はその後、小西行長(こにしゆきなが)、黒田長政(くろだながまさ)らが、平壌(ピョンヤン:現北朝鮮)を陥落させ、加藤清正(かとうきよまさ)らは咸鏡道(かんきょうどう)に進み、朝鮮の王子を捕らえて明にも侵攻した。

長くは続かなかった日本の優勢

しかし、日本軍の快進撃はここまでであった。
明の救援軍に加え、各地で抗日義兵が蜂起する。
このとき日本軍は、進撃ばかりに気を取られ、朝鮮の民に対する撫民(民をいたわる事)を怠っており、現地人の支持を全く得られておらず、周りが敵だらけだったのだ。

戦意を失った武将らが和平を申し出る

朝鮮の将軍・李舜臣(イ・スンシン)の率いる水軍が制海権を握った為、日本軍は糧道を断たれてしまう。
兵糧が不足してしまった事は、慣れない土地で急病に罹る者まで出てきており、次第に日本軍は押されていった。
戦線の膠着に小西行長らは、明を通じて交渉に入った

慶長の役 1597年

しかし、明との講和条件が折り合わず、1597年2月、秀吉は再び14万の大軍を朝鮮に派遣した。
二度目の朝鮮出兵「慶長の役」である。

消耗した子飼い大名と、無傷だった家康

2度目の出兵は朝鮮半島南部にとどまり、慶尚道(きょんさんどう)と全羅道(ちょるらど)の沿岸に城を築いての持久戦となった。
この間、加藤清正ら武将(武断派)と石田三成ら官僚(文治派)との確執が発生、これが後の関ヶ原の戦いと、豊臣政権の崩壊へと繋がっていく。

秀吉の死後、撤兵

1598年8月、秀吉が病死すると、日本軍は撤兵した。
東アジアにおける大規模な戦争へと発展した朝鮮出兵は、秀吉子飼いの大名を疲弊させる一方で、渡海せずに済んだ徳川家康の勢力を絶大なものにする結果となった。

その後の朝鮮とに日本

戦場となった朝鮮では、日本軍による民間人虐殺や強制連行などが行われ、朝鮮の人々の日本に対する憎悪を募らせる結果となった。
しかし、秀吉の死後、徳川家康によって江戸幕府が開かれると朝鮮との国交を回復する。
キリシタン蜂起による島原の乱後、幕府は鎖国政策を行うが、清や朝鮮との交易は維持され、朝鮮からは朝鮮通信使が日本へ派遣された。

朝鮮出兵の流れ

1592年4月 文禄の役
釜山に上陸した日本軍は、朝鮮軍の防備の手薄な釜山城を1日で陥落させた。
1592年5月
日本軍は首都漢城(ソウル)を占領。
朝鮮国王は漢城を脱出して平壌に逃れた。
1592年6月
日本軍は平壌を占領。 7月に明の援軍を撃退するも、翌年1月に撤退する。
1592年7月
会寧(かいねい)に侵攻した加藤清正らは朝鮮王子2人を捕らえ、さらに明領にまで侵攻した。
1597年7月 慶長の役
元均率いる朝鮮水軍は全滅し、日本軍が制海権を握った。
1597年12月
蔚山城(うるさん)に明・朝鮮連合軍が押し寄せ、籠城する加藤清正が苦戦する。
1598年10月
撤退する日本軍に明の大軍が攻め寄せたが、島津義弘が寡兵(かへい:少ない軍兵)で撃退し、勇名を馳せた。

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