征夷大将軍の蝦夷征伐

古代 征夷大将軍の蝦夷討伐

桓武天皇による蝦夷・東北征討

奈良時代末、朝廷の支配力がまだ及んでいなかった東北地方で、「蝦夷」による乱が多発する。
桓武天皇は親都造営に取り組む一方で、東北地方の平定に乗り出した。
蝦夷の討伐に向かったのは、ときの征夷大将軍 坂上田村麻呂であった。

古代の東北地方は「異国の地」

大化の改新以降、国家の中央集権化を目指す朝廷は、支配地域の拡大にも力を入れていた。
当時、東北地方に住んでいた「蝦夷(えみし)」と呼ばれる人々は、朝廷への帰属を拒絶していた。
7世紀の半ば、朝廷は日本海側に渟足柵(ぬたりのさく)、磐舟柵(いわふねのさく)を設置すると、658年には阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣して、秋田・津軽地方まで遠征させ、北方の蝦夷と関係を結んだ。

東北の開拓を進め、朝廷の勢力を拡大

8世紀になると、朝廷の東北進出は加速する。
日本海側には出羽国(でわこく)を新設し、さらに前進して秋田城を設置した。
太平洋側には陸奥国府、鎮守府(ちんじゅふ)として多賀城(たがじょう)を築き、東北地方の行政・軍事上の拠点とした。
また、「城柵(じょうさく)」と呼ばれる役所を各地に設置し、関東地方などから農民(柵戸(さくこ))を集めて、周辺市域に住まわせ、東北の開拓を進めていった。

征夷大将軍 坂上田村麻呂

こうした政策により、朝廷の東北支配は進んだが、奈良時代末になると、状況は一変する。
780年、帰順した蝦夷の豪族伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)」がを起こし、伊治城や多賀城を襲撃する。
これを機に、東北地方では蝦夷による乱が相次いだ。

朝廷軍と阿弖流為の戦い

789年、桓武天皇の命を受けた征東大使(せいとうたいし)の紀古佐美(きのこさみ)は、大軍を率いて蝦夷の制圧に向かった。
しかし、北上川沿いの胆沢地方の族長の阿弖流為(あてるい)に、敗北してしまう。
無様な敗北に腹を立てた桓武天皇は、3年余り時間を掛けて、戦闘の準備を行った。
そして、794年、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大使、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を副使とする10万余りの軍勢を送りだした。
この征討は、田村麻呂の活躍で、多くの成果を上げている。

田村麻呂の東北平定

この功により田村麻呂は陸奥出羽按察使(あぜち)、陸奥守(むつのかみ)、鎮守府将軍(ちんじゅふ)に任じられ、797年には征夷大将軍に昇進した。
801年にも遠征に出て成功を収め、翌802年には胆沢城(いさわじょう)を築いて鎮守府を多賀城から移すなど、東北地方の平定に多大な功績を残した。

後に日本人に同化する蝦夷

引き続き征討計画が立てられたが、805年、桓武天皇の裁定により、民衆に多大な負担を強いていた東北遠征は中止となる。
嵯峨天皇(さがてんのう)の時代に文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が派遣され、水害に見舞われた志波城(しわじょう)の代わりに徳丹城(とくたんじょう)を築いたが、以降は大きな動乱もなく、蝦夷は次第に朝廷に吸収されていった。
その一部は中世のアイヌに繋がり、一部は日本人に同化したと考えられている。

蝦夷関係年表『山川 詳説日本史図録』より引用

蝦夷関係年表(『山川 詳説日本史図録』より引用)


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