島原の乱

島原の乱

島原の乱は、江戸時代初期(1637〜38年)に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の内戦である。
一揆軍の指導者とされる「天草四郎」の名から、島原・天草の乱、島原・天草一揆とも呼ばれる。
キリシタン信徒を中心とした一揆で、約3万7000人の農民・浪人が天草四郎を首領に原城に立て籠り、12万もの幕府軍に激しく抵抗した。
幕府軍は板倉重昌が戦死するなど苦戦したが、兵糧攻めによって4カ月後に落城させた。

圧政に苦しむ領民たちが蜂起

キリシタン大名・有馬晴信による支配が長かった島原地方には、キリシタンが多かった。
しかし、豊臣秀吉が1587年にバテレン追放令を、続く江戸幕府は1612年に禁教令を出しており、日本ではキリスト教が禁止される。
1614年、有馬氏に代わって島原領主となった松倉重政はキリシタンを厳しく弾圧。
そのうえ、新たに島原城を築城する為に農民たちに重税を課し、過酷に取り立てた。

島原の乱のようす

島原の乱のようす

島原の乱勃発

1637年10月25日、島原地方の農民たちは手に武器を持ち、代官を殺害。
これが島原の乱の始まりとなった。
翌26日には、寺や神社を焼きながら島原城へと向かう。
この動きが天草地方の富岡城へと飛び火した。
島原と天草の一揆軍は合流し、島原城の新造にともない廃城となった原城に籠城。
城を修築し、奪った武器や兵糧を運び込んだ。
この一揆軍の総大将には、15歳の天草四郎であった。
(現実的には15歳の少年に軍を率いれたとは考えられず、一揆軍によって旗印として掲げられた可能性が高い)

以外に強かった一揆軍

幕府は九州の諸大名に乱の討伐を命じ、12月10日、幕府軍の攻撃が開始された。
しかし、原城の護りは堅く、また一揆軍は頑強に抵抗し、総大将の板倉重昌は戦死した。
なお、この戦いには宮本武蔵も参戦しており、脚に負傷を追ったと記録されている。

幕府方の総攻撃で乱が終結

苦戦する幕府は、老中・松平信綱を2代目指揮官に任命する。
信綱は兵糧攻めに作戦を切り替え、さらにオランダ船に依頼して海から原城に砲撃を加えた。
そして2月27日の総攻撃で、天草四郎をはじめ、城内にいた3万7000人は全て殺害された。

原城攻囲陣営並城中図一幅

島原の乱時の貴重な資料で、平戸松浦家楽歳堂文庫の所蔵品。
平戸松浦家の命によりの島原の乱後、あまり隔りのない時期に描かれたものと考えられる。
絵図は縦186p、横195pの紙本着彩図であり、原城内と幕府の布陣の模様並びに落城後籠城軍が処刑された模様を描き、それに島原の乱関係の記録によって短冊型の説明書が記入してある。
絵図には火災にあって燃える町屋、原城の攻撃に参加したオランダ船、戦後竹矢来に乗せられたさらし首など詳細に描かれている。

原城攻囲陣営並城中図一幅

原城攻囲陣営並城中図一幅

島原の乱に参戦した武将

  • 松倉勝家 2500人
  • 寺沢堅高 7575人
  • 鍋島勝茂 3万5000人
  • 有馬豊氏 8300人
  • 立花宗茂 8300人
  • 細川忠利 2万3500人

一揆軍唯一の生き残り

内通者・山田右衛門作

原城に籠城した一揆軍は、非戦闘員も含めて全て殺害されたが、山田右衛門作は幕府軍と内通していた為、唯一生き残った。
一揆軍の結束を示した「天草四郎陣中旗」は、山田右衛門作が描いたものと伝えられる。

天草四郎陣中旗

天草四郎陣中旗


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