江戸幕府の仕組み

江戸幕府の仕組み

徳川家康を祖とする江戸幕府は、全国各地の大名の力を抑える巧妙なシステムを造り上げた。
幕藩体制をはじめ、様々な政策によって260年にも及ぶ、太平の時代、長期安定政権を実現した。

江戸幕府による大名統制

武家諸法度を制定

1615年の大坂夏の陣で大坂城の豊臣家を滅ぼした徳川家康は、同年、崇伝(すうでん)らにはかって武家諸法度(ぶけしょはっと)(元和令)を制定した。
政治上の訓戒を定めたほか、大名の城郭を無断で修築する事を禁止し、さらに、私婚の禁止などを全国の大名に強制した。

親藩、譜代、外様

また、諸大名を親藩(しんぱん:徳川氏一門)、譜代(ふだい:三河以来の家臣)、外様(とざま:関ヶ原の戦い以降に臣従した大名)に分類。
外様大名の大半を辺境の地へと移し、その領国周辺に幕領(ばくりょう:幕府直轄領)や親藩・譜代大名を配置して、監視体制を強めた。

参勤交代

幕府が大名を統制する

3代将軍家光は1653年、新たに武家諸法度(寛永令)を発布。
大名が1年おきに領国と江戸に移り住む参勤交代を制度化した。
これは、閉鎖な時代に相応しい形で諸大名の軍事力の総動員を目指すものだった。
勿論、大名らに大規模な引っ越しを強制する事で、国力維持を困難化する目的もあった。

参勤に掛かる費用

諸大名は参勤交代の費用に大いに苦しめられたという。
大名行列の人数は家格、石高によって異なり、大体数百人位であったが、最大の加賀藩では4000人にもなった。
加賀藩は、1635〜1862年の約230年間に、参勤(金沢から江戸へ)を97回行ったが、その距離約480q、移動日数は12泊13日であった。
かかる費用は、旅籠代、川越代、幕府高官への土産代などで、1泊した旅籠代だけで、現在の金額で約4000万円も掛かった程であった。

老中、若年寄、三奉行

こうして、主従関係を強化する一方で、幕府は、将軍の下に老中、若年寄、三奉行(寺社奉行、町奉行、勘定奉行)を設置し、それぞれに譜代大名や旗本を充てて幕政を担当させた。

朝廷にまで及んだ幕府の厳しい統制

幕府の越権行為?

1615年、幕府は武家諸法度とともに禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定する。
これは、古の時代から日本を治めて来た朝廷の統制を図るものであった。
「天子御芸能の事、第一御学問也(※)」など、天皇の行動を規定した為、朝廷は幕府に対して不満を招いた。
※天子として行うべき学問・芸術のなかで、第一は御学問、ついで和歌、これらの習学が専要であるとする。という事。

紫衣事件

1627年には幕府と朝廷が衝突する紫衣事件(しえじけん)が起こった。
後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が幕府にはからずに高位・高徳の僧に紫衣を与えた時、幕府は紫衣を取り上げて僧らを流罪とした。
後水尾天皇はこれに耐えかね、1629年、幼少の明正天皇に譲位してしまった。
こうした事件を経て確立された幕藩体制は、260年間の平和を支えた。


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