町奉行と与力・同心

町奉行と与力・同心

町奉行所とは?

江戸に「町奉行所」が出来たのは、三代 徳川家光の時代だ。
南と北の二つの町奉行所が置かれ、江戸後期の南町奉行所は、現在の有楽町駅付近、北町奉行所は、現在の東京駅八重洲口側の敷地内にあった。
町奉行所には、それぞれ与力25騎(後に23騎)同心100人(後に140人)が配属され、管轄区域は、江戸の町方に限られていてた。
江戸市中の面積の半分以上を占めた武家地や寺社地には、権限が及ばなかったのだ。
町奉行は、初期には大名から、その後は旗本から優秀な者が選ばれた。

警察・裁判所・消防署としての役割を担う

町奉行の仕事といえば、犯罪者を捕らえ、裁判に掛けるなどの、現在でいう警察や裁判所の役割を持っていた。
勿論、これは町奉行の仕事の一部に過ぎない。
江戸町奉行は、さらに、現在でいうところの警視総監や都知事消防士としての役割や権限も担っていたのだ。
江戸の民政を全面的に担当していたといっても過言ではない。

町奉行の人気者たち

大岡忠相

歴代の町奉行の中でも、名奉行と呼ばれた大岡忠相(おおおかただすけ)は、享保三年(1718年)に町火消制度を制定した。
その後、町火消「いろは四八組」を編成したり、目安箱の意見を受け、町民が安心して診察してもらえる「小石川養生所」を設置した事でも知られている。

遠山の金さん

遠山の金さんは、天保の改革当時、江戸市中から追放されそうになった歌舞伎を江戸郊外へ移転させ、存続させる事に成功している。
庶民の楽しみを奪ってはいけないと、老中の水野忠邦と粘り強く交渉し、浅草猿若町へ移して、こっそりと上演させる事で手を打ったのだ。
後に、歌舞伎で「遠山の金さん」が頻繁に上演されたのは、歌舞伎界からの恩返しである。

鳥居耀蔵

一方、鳥居耀蔵(とりいようぞう)という南町奉行は、天保の改革と時、老中と結託し、贅沢を一掃する為、市中を厳しく取り締まった。
そのため、天保の改革に批判的だった北町奉行の遠山の金さんと対立、水野忠邦と組んで金さんを町奉行から追放してしまう。
しかし、鳥居は江戸の行政官としては、町人から嫌われてしまい、時代劇でも悪役として登場する事となる。


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