老中と若年寄

幕府を動かす「老中」と「若年寄」

老中とは?

江戸幕府で、政治実務の最高権力者だった老中は、常に4〜5名置かれていた。
といっても、現在の内閣のように、老中ごとに担当する部門が分かれていたわけではない。
一ヶ月毎に交代しながら、事務を処理し、重要な問題ついては、会議によって決定していた。
現在の内閣でいえば、全ての国務大臣を兼務する大臣が4〜5名存在し、閣議を開いて決済を行い、将軍の裁可を経て布告していた事になる。

江戸時代に活躍した老中たち

江戸時代を通じて、老中に任じられた者は150人近くいる。
寛政の改革の松平定信や、天保の改革の水野忠邦、島原の乱の鎮圧や明暦の大火後の江戸復興などに尽力した松平信綱、八代吉宗の「享保の改革」の実務を担当した水野忠行、重商的政策を行った田沼意次などが有名である。

老中・田沼意次の政治政策

例えば、10代家治の下で老中となった田沼意次は享保4年(1719年)、小禄の旗本の長男として生まれた。
父親は紀州藩の出身で、紀州藩から将軍となった八代吉宗の小姓を務めていた。
それにならって、意次も9代家重の小姓となり、やがて頭角を現し、一万石の大名に取り立てられた。
家重が死ぬと、10代家治にも信頼され、側用人に出世する。
遠州・相良藩5万7千石を与えられ、さらに老中へと昇りつめた
そして悪化する幕府の財政赤字を食い止める為、重商主義的な経済政策を採用する。
幕府の財政は改善に向かい、景気も良くなった。

田沼の失敗と、近年の評価

ところが、都市部は潤い、町人文化は発展したが、農村地帯は荒廃してしまい、両者の格差が広がる「格差社会」を招いてしまう。
また、この「田沼時代」は、史上空前の賄賂政治が横行した時代でもあったのだ。
田沼は士農工商の身分制に囚われず、実力主義で人材を登用した。
しかし、そうした政策や人事が保守派の反発を招き、家治の死後、反田沼勢力の陰謀によって失脚させられてしまった。
当時の世において、田沼が執った政治政策は、賄賂政治として、否定的な見方が強かった。
しかし、近年では、封建社会に近代的な経済政策を取り入れた、先鋭的な政治家として評価されている。

若年寄とは?

老中に次ぐ地位にあったのが若年寄である。
国政を担当していた老中に対し、旗本や御家人の人事・支配を中心とした政務を担当していた。
定員は3〜5人程で、おおよそ3万石以下の譜代大名から任じられていた。
現代の政治システムでいえば、副大臣クラスである。

若年寄の役割・仕事内容

若年寄は、書院番(将軍直属の騎馬親衛隊)、小姓組(護衛を任務とする)、小普請(城や建物の修理担当)、目付(旗本と御家人を監視)、小十人組(将軍及び嫡子の警備、護衛)などの組織も監督していた。
現在の警察庁長官のような役割も請け負っていたようだ。

老中への出世道はとても険しい

また、若年寄は、老中となるための出世道でもあった。
しかし、現実的には、江戸時代を通じて、161名いた若年寄の内、老中まで出世できたのは1/5程度に過ぎなかった。
老中に出世するには、上司である老中に目を掛けられ、大坂城代や京都所司代を無事に務めるか、老中格として力を発揮しなければならなかった。
しかも、老中の定員は4〜5名と、とても少なく、狭き門だったのだ。
そのため、若年寄たちは、老中からどれだけこき使われても、耐えるしかなかった。
例えば、老中から書類整理を命じられると、若年寄たちは自分の仕事を中断して、山積みの書類を黙々と仕分けるしかなかったという話も残っている。

老中のお仕事

老中は、月番制で、一ヶ月交代で政務を処理していたが、月番でないときも、会議に参加したり、事務処理を行っていた。
老中の屋敷は、江戸城西の丸下にあって、在任中はそこで暮らしていた。
起床は午前6〜7時頃で、登城時間は午前10時頃と決まっていた。
しかし、屋敷には、朝から各藩の担当者が請願に訪れたり、役職が欲しい旗本らが陳情に来ていた。
出勤前には、彼らの話を聞くのも老中の仕事の一つだった。

老中たる者、仕事はご法度

10時には、太鼓を合図に、月番非番を問わず、全員揃って大手門から江戸城に入った。
1人でも遅れると、他の老中も待たなければならなかった。
入る時の順序は先任順で、その順が老中の席次になっていた。

老中の仕事部屋と環境

老中と若年寄の執務室には、表の御用部屋が充てられていた。
老中用の上の間と、若年寄用の下の間があり、それぞれ20畳ほどの広さがあった。
そこに、上席者から座り、各自の御用箱(書類ケース)を側に置いて仕事をしていた。
この部屋に出入りできたのは、老中と若年寄以外には、書記にあたる奥右筆(おくゆうひつ)だけである。

謁見・面会も日常茶飯事

将軍は、午前11時頃、大奥を出て中奥へやって来る。
将軍の裁可を必要とする事柄は、側用人を通じて都合を問合せ、その指示に従って謁見した。
また、部下にあたる町奉行や勘定奉行、遠国奉行、大目付、大番頭、なども、必要に応じて面会にやって来た。
老中が一日の仕事を終え、江戸城を退出するのは午後2時である。

老中はいつも急ぎ足だった?

なお、老中たちは、江戸城内ではいつも忙しそうに歩いていたという。
また、老中が乗る乗物も、常に急ぎ足で移動する事になっていた。
将軍の死や内乱といった異変が起きた際、それを人に悟られないようにするため、日頃から忙しそうにしていたのである。


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