征夷大将軍
「大化の改新」以降、朝廷は中央集権化を進め、帰属を拒否していた東北地方へ支配拡大を図った。
そのときに置かれたのが征夷大将軍である。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いた後、征夷大将軍に任じられた為、その後の幕府の長が付く役職として定着した。
征夷大将軍の始まり
奈良時代、8世紀の初頭に辺境地域の征討の為に天皇から刀剣(節刀)を賜った陸奥鎮東将軍(むつちんとうしょうぐん)、征越後蝦夷将軍(せいえちごえみししょうぐん)が派遣されたことが確認されている。
その征東大将軍(せいとうたいしょうぐん)、征夷大将軍などという職名で続いたのだ。
8〜9世紀の征東大将軍・征夷大将軍
- 陸奥鎮東将軍
- 巨勢麻呂(こせのまろ)
生没年:?〜717年
- 持節征夷将軍(じせつせいいしょうぐん)
- 多治比県守(たじひのあがたもり)
生没年:668〜737年
- 持節大将軍
- 藤原宇合(ふじわらのうまかい)
生没年:694〜737年
- 持節征東将軍
- 大伴家持(おおとものやかもち)
生没年:718〜785年
- 征東大使(征東大将軍)
- 紀古佐美(きのこさみ)
生没年:?〜797年
- 征夷大将軍
- 大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)
生没年:731〜809年
概要:794年に弟麻呂が、初めて征夷大将軍に就いた
- 征夷大将軍
- 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
生没年:758〜811年
- 征夷将軍
- 文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)
生没年:765〜823年
- 征東大将軍
- 藤原忠文(ふじわらのただぶみ)
生没年:873〜947年
概要:平将門の乱の鎮圧に起用された
幕府の歴代征夷大将軍
鎌倉幕府の将軍
- 初代.源頼朝
- 鎌倉幕府を開いた将軍であり、武士として初めて将軍となった。
就任期間:1192〜1199年
- 2代.源頼家
- 頼朝の子で、後を継いで将軍になったが、独断が多く、将軍職を剥奪された後に暗殺される。
就任期間:1202〜1203年
- 3代.源実朝
- 貴族的な生活を好む和歌に秀でていた。頼家の子の公暁に暗殺された。
就任期間:1203〜1219年
- 4代.藤原頼経
- 頼朝の母の妹の孫。頼朝と血縁ではあるが、遠戚であり、北条家の傀儡であった。
就任期間:1226〜1244年
- 5代.藤原頼嗣
- 6歳で将軍となるが、三浦氏と北条氏の権力争いに巻き込まれ、14歳で解任された。
就任期間:1244〜1252年
- 6代.宗尊親王
- 後嵯峨天皇の皇子。幕府から藤原家を一掃したい北条氏の思惑で皇族から招かれた皇族将軍。和歌の創作に打ち込み、鎌倉歌壇を盛り上げた。
就任期間:1252〜1266年
- 7代.惟康親王
- 3歳で将軍に就任した。蒙古襲来の事件があり、御家人の結束が求められたため源惟康と名乗っていた。
就任期間:1266〜1289年
- 8代.久明親王
- 将軍としての役割はこなしておらず、歌会を多く主催し鎌倉歌壇の中心として活躍した。
就任期間:1289〜1308年
- 9代.守邦親王
- 鎌倉幕府最後の将軍。幕府が滅亡した後、出家するが、その三か月後に死亡している。
就任期間:1308〜1333年
室町幕府の将軍
- 初代.足利尊氏
- 後醍醐天皇と共に鎌倉幕府を倒すが、建武の新政に反旗を翻して新政権を樹立した。光明天皇を擁立して将軍に就任するが、南北朝の分裂を引き起こしてしまった。
就任期間:1338〜1358年
- 2代.足利義詮
- 尊氏の嫡男で、母は鎌倉幕府最後の執権 北条守時の妹。大内氏や山名氏などの有力守護大名が幕府に帰順し政権を安定させた。
就任期間:1358〜1367年
- 3代.足利義満
- 南北朝を統一し、有力守護大名を押さえつけ、金閣を建立して北山文化を作り上げた。また勘合貿易を行い富を蓄え、室町幕府の全盛期を築いた。
就任期間:1368〜1394年
- 4代.足利義持
- 9歳で将軍となるが、太政大臣の父義満が実権は握っていた。父の死後、守護大名の調整役として機敏に立ち回った将軍である。在職期間が歴代将軍の中でも特に長い。
就任期間:1394〜1423年
- 5代.足利義量
- 義持の嫡男で17歳で将軍となった。しかし、病弱であり健康面は不安があった。在位2年余りで急死した。
就任期間:1423〜1425年
- 6代.足利義教
- 義満の五男で、義量の死後にクジ引きによって選出された為、クジ引き将軍と呼ばれた。強権的な政治を行い、不満をを持った赤松氏に暗殺された。
就任期間:1429〜1441年
- 7代.足利義勝
- 義教の子で、9歳で将軍となった。しかし僅か8か月ほどで病死してしまう。
就任期間:1442〜1443年
- 8代.足利義政
- 守護大名の家督争いに義政自身の相続問題が絡んでしまい応仁の乱を引き起こしてしまった。晩年は東山に東山殿を築き、銀閣に代表されるわび・さびを重視した東山文化をおこした。
就任期間:1449〜1473年
- 9代.足利義尚
- 義政の次男。義政の弟の義視と将軍職をめぐって対立した。応仁の乱の最中に将軍となり、乱後の幕府の権威の回復にあたった。
就任期間:1473〜1489年
- 10代.足利義稙
- 義視の子。義尚、義政親子の死に伴い将軍となった。細川氏との対立により将軍職を追われるが、13年後に復帰する。
就任期間:1490〜1493年、1508〜1521年
- 11代.足利義澄
- 義稙が細川氏に追放されて将軍となった。しかし、今度は義稙を擁立する大内氏に攻められ、近江国に逃れる。そこで将軍職も奪われてしまい、そのまま死去する。
就任期間:1493〜1508年
- 12代.足利義晴
- 義澄の子。政権の中枢に内談衆という側近の集団を置き政権の強化を図り、また朝廷との関係を深めようとした。
就任期間:1521〜1546年
- 13代.足利義輝
- 幕府の権威の復活を目指し、戦国大名間の構想の調停をたびたび行った。ある程度の成功を治めるが、幕政を握ろうとした松永久秀らに暗殺された。
就任期間:1546〜1565年
- 14代.足利義栄
- 義輝を暗殺した松永久秀らによって擁立され将軍に就任した。しかし、織田信長が義輝の弟の義昭を擁立して上洛したため安房に逃れて病死した。
就任期間:1568〜1568年
- 15代.足利義昭
- 信長に擁立されて将軍となるが、やがて信長と対立してしまう。京都から追われて備後国に逃げ、室町幕府は滅亡した。その後、豊臣秀吉から山城国の大名とされた。
就任期間:1568〜1588年
江戸幕府の将軍
- 初代.徳川家康
- 豊臣五大老の筆頭から、秀吉の死後に関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍を破った事で全国を統一した。武家諸法度などを定め、約260年に渡る江戸幕府の基礎を築いた。
就任期間:1603〜1605年
- 2代.徳川秀忠
- 関ヶ原の戦いで中山道を進むが、信濃国上田城攻めで手間取り、本戦に間に合わなかった。家康の不興を買ったが、家康死後は武家諸法度の制定など政務に励んだ。
就任期間:1605〜1623年
- 3代.徳川家光
- 武家諸法度を改訂し参勤交代を義務付けたり、キリシタンを禁じて鎖国体制を強化したりする事により、幕府の基礎を確実なものとした。
就任期間:1623〜1651年
- 4代.徳川家綱
- 家光が死去すると11歳で将軍となる。由比正雪や丸橋中弥らの反乱が起きるなど不安定な時期だったが、老中、大老らの補佐により29年の安定政権を築いた。
就任期間:1651〜1680年
- 5代.徳川綱吉
- 治世の前半は善政を敷き、天和の治として称えらえている。後半は生類憐みの令などを出したり、貨幣改鋳をめぐって失敗したりと財政を悪化させた。
就任期間:1680〜1709年
- 6代.徳川家宣
- 家光の孫。43歳で綱吉の養子となる。将軍就任後は、生類憐みの令、酒税などを廃止する。また新井白石などを登用して政治の刷新を図った。
就任期間:1709〜1712年
- 7代.徳川家継
- 家宣の四男。兄たちが次々に夭折してしまい、4歳で将軍となる。幼少の為、新井白石らが後見となり正徳の改革を行う。だが1716年風邪が悪化して死去してしまう。8歳であった。
就任期間:1713〜1716年
- 8代.徳川吉宗
- 徳川御三家の紀州藩から将軍となる。公事方御定書を制定したり、享保の改革を行って藩政の立て直しに努めた。破綻しかけていた財政を復興した。
就任期間:1716〜1745年
- 9代.徳川家重
- 生まれつき病弱で政務を執る事が難しく、言語不明瞭なため限られた人にしか意思が伝わらず、大岡忠光による側用人制度が復活した。田沼意次を起用している。
就任期間:1745〜1760年
- 10代.徳川家治
- 幼少の頃より聡明等の評価が高かった。祖父吉宗から帝王学を学ぶ。しかし政治は田沼意次らに任せ趣味に興じる事が多く、祖父の期待に応えられなかった。
就任期間:1760〜1786年
- 11代.徳川家斉
- 田沼意次を罷免し、松平定信による寛政の改革を実行する。やがて定信と対立するようになり定信も罷免する。家慶に将軍職を譲っても実験は握り続けた。
就任期間:1787〜1837年
- 12代.徳川家慶
- 水野忠邦による天保の改革を行わせたが、急激だったので失敗する。一方で高野長英や渡辺崋山といった学者を弾圧した。阿部正弘を起用している。
就任期間:1837〜1853年
- 13代.徳川家定
- 家慶の四男。就任後も跡継ぎ問題が絶えないほど病弱だった。政治は老中に一任していた。ペリーが来航する事件にも何ら指導力を示す事が出来なかった。
就任期間:1853〜1858年
- 14代.徳川家茂
- 井伊直弼に推されて将軍となった。英明との評価が高く、幕臣からの信望も厚かった。皇女和宮と結婚して公武合体を進めたが、第二次長州征伐の際に大坂城で病死した。
就任期間:1858〜1866年
- 15代.徳川慶喜
- 徳川御三卿、一橋家から宗家を相続した。将軍家茂の後見職を務め家茂の死後、江戸幕府最後の将軍となった。大政奉還、江戸城無血開城などを行った。
就任期間:1866〜1867年