古墳時代の年表

古墳時代の年表

古墳時代とは三世紀の後半から七世紀頃までとされ、ヤマト政権(王権)が全国各地の豪族たちを支配する中央集権体制の黎明期である。次の飛鳥時代は西暦592年から。

古墳時代の年表

簡単年表

西暦主な出来事
3世紀半ば 前方後円墳が出現する
247年頃 卑弥呼が死去、大きな墓が造られる
266年 倭の女王・台与、晋に遣使する
これ以降、316年までは書物による記録はない
4世紀 ヤマト王権による統一が進む
4世紀前半 巨大な前方後円墳が数多く造営される
316年 仁徳天皇が民衆の税を三年間免除する
369年 倭国、朝鮮(伽耶(任那))に出兵※近年では否定説あり
百済王の世子、倭国に七支刀を贈る
391年 倭、高句麗と戦う
413年 倭国、東晋に遣使する
421年 倭の五王の倭王讃(さん)、中国南朝の宋に遣使し、宋の武帝から称号を賜る
5世紀半ば 各地に大規模な古墳が出現
425年 倭王讃が再び宋に遣使、貢物を献上する
438年 倭王珍(ちん)、中国南朝の宋に遣使し、「安東将軍 倭国王(あんとうしょうぐんわこくおう)」となる
443年 倭王済(せい)、宋に遣使し、「安東将軍 倭国王」となる
451年 倭王済、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍 倭国王」となる
462年 倭王の世子興(こう)、「安東将軍 倭国王」となる
478年 倭王武(ぶ)、宋に遣使氏、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍 倭国王」となる
507年 武烈天皇(ぶれつ)に子がなく、北陸から継体天皇(けいたい)が迎えられる
522年渡来人の司馬達等が草庵で仏像を拝む(民間では既に仏教が伝来していたと推測される)
527年 磐井の乱、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)が反乱を起こし、物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧される
538年 百済の聖明王(せいめいおう)が仏像・経典を伝える(仏教公伝)
540年 大伴金村が任那4県割譲問題で失脚
552年 仏教を巡り、祟仏論争(すうぶつ)が起こる
585年 物部守屋(もりや)、仏殿を焼き、仏像を捨てる
587年 丁未の乱で、蘇我馬子、泊瀬部皇子(はつせべのみこ:崇峻天皇)、厩戸皇子(うまやどのみこ:聖徳太子)らと共に、物部守屋を滅ぼす
588年 飛鳥寺の造営が始まる
592年 蘇我馬子、崇峻天皇を殺害する
推古天皇飛鳥・豊浦宮で即位(飛鳥時代の始まり)
593年 聖徳太子、推古天皇の摂政となる
594年 仏教(三宝)興隆の詔(みことのり)が出される
6世紀末 前方後円墳が築かれなくなり、古墳の規模が縮小していく(古墳時代の本格的な終焉)
600年 阿毎多利思比孤(アマ・タリシヒコ)が隋に遣使される
※この時の遣使は、国書を持っておらず、隋から相手にされなかった為、日本側の歴史には残っていない
古墳の変遷『山川 詳説日本史図録』より引用

古墳の変遷(『山川 詳説日本史図録』より引用)

主な古墳の編年『山川 詳説日本史図録』より引用

主な古墳の編年
3世紀後半〜4世紀に奈良県(大和)に集中していた大型前方後円墳が、4世紀末〜5世紀に巨大化し、大阪府(河内)に築造されるようになる。この時期には、岡山県(吉備)や群馬県(上毛野)にも大型前方後円墳がみられるが、6世紀になると全国的に古墳の規模は縮小する。(『山川 詳説日本史図録』より引用)


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