蘇我馬子

物部氏と崇仏か排仏かで争った 蘇我馬子

蘇我馬子

武略と弁才に長けた野心家

蘇我馬子(そがのうまこ:出生年不明〜626)は「日本書記」に記述される飛鳥時代の政治家だ。乙巳の変で暗殺された蘇我入鹿の祖父でもある。
敏達(びだつ)、用明(ようめい)、崇峻(すしゅん)、推古(すいこ)の四代もの天皇の代に大臣を務めたと云われる。
馬子は「武略と弁才」で政敵たちを倒し、当時の天皇家(大王家)との血縁関係を強化する事で、蘇我氏の繁栄の栄華を極めた時代の頂点に立った。
蘇我氏は渡来人との交流に篤く、馬子の祖先の時代では韓小(からこ)や高麗(こま)といった名でも呼ばれていたという。当然、数々の先進文化や技術を大陸より多く取り入れていた。
馬子の父である蘇我稲目(そがのいなめ)の代より大陸から伝わってきた仏教の布教に熱心であったが、このことから物部氏との対立が起こっていく。
日本には、古来より独自の神が多く存在していたと云われ、仏教のような異国の神を信仰する事をよく思わないものが多くいたが、物部守也(もののべのもりや)はその筆頭であった。
物部氏と蘇我氏の争いは宗教論争にとどまらず、朝廷内における勢力争いにまで発展してしまった。


皇子を殺害し、物部氏と軍事衝突となる

西暦587年、用明天皇が崩御した後、物部守也が穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位に付け次の天皇にするよう企てるが、これを馬子が阻止する為に穴穂部皇子を殺害してしまい、これにより物部氏と蘇我氏の軍事衝突にまで発展してしまった。
物部氏の軍はとても精強だっため、蘇我氏の軍は劣勢に追い込まれ三度も撤退を余儀なくされてしまうが、迹見赤檮(とみのいちい)という舎人(とねり)に守屋を射落とすこのに成功すると物部氏軍は総崩れとなり、蘇我氏の勝利となった。
なお、この戦には14歳の若き聖徳太子も蘇我氏側として参加したと云われる。

天皇まで殺害、独裁的な力を手にする

物部氏を滅ぼした後、馬子は自身が擁立して即位した崇峻天皇(すしゅんてんのう)の下で独裁的なまでの権力を手に入れた。
その後、592年にはその崇峻天皇が自分に敵意を持っていると察した馬子は渡来人系の配下である「東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)」に命じて殺害してしまう。
そして、自分の姪の「額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)」を初の女性天皇・推古天皇として即位させた。
これにより、推古天皇と聖徳太子、蘇我馬子という蘇我氏の血族による政治体制が確立した。


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