推古天皇

推古天皇

推古天皇(554年5月21日〜628年4月15日)は、第33代天皇で、歴代天皇の中では最初の女帝(女性天皇)である。
非常に容姿端麗であったと云われ、また、天皇号を初めて用いた日本の君主という説もある。
在位期間は593年1月15日までの628年4月15日までの36年(古事記では37年)であった。
聖徳太子が摂政として仕えた天皇として有名である。

推古天皇像(土佐光芳画)

推古天皇像(土佐光芳画)

蘇我氏に政治を委ねた女帝

崇峻天皇と蘇我氏の対立

用明天皇の崩御後に発生した内戦(丁未の乱)が終結し、崇峻天皇が即位したが、政治の実権は蘇我馬子が握っていた。
やがて、崇峻天皇の中に馬子に対する憎しみが生まれていく。
日本書紀によれば、崇峻天皇はイノシシが献上された際にそれを指しながら、「いつかイノシシの首を切るように、憎いと思っている奴を切りたいものだ」と語ったという。
イノシシとは、馬子の事を指していたのだろう。
これが馬子の耳に入ると、先手を打たれてしまう。
崇峻天皇5年(592)11月、天皇は馬子の命を受けた東漢直駒(あずまのあやのあたいこま)に殺害された。
臣下による天皇弑逆という大事件だった。

史上初の女性天皇へ即位

後継には敏達天皇の皇后・炊屋姫(かしきやひめ)が選ばれ、推古天皇となった。
神宮皇后や飯豊青皇女も実質的なトップであったが、正史の上では、これが初の女性天皇である。

聖徳太子が摂政に

推古天皇元年(593)4月、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に立て、政治全般を委ねた。
同3年(595)、高句麗の僧である慧慈(えじ)が来日、厩戸皇子の師・相談相手となった。

「冠位十二階」を制定

日本書紀によれば、厩戸は同天皇11年(603)には「冠位十二階」を制定。
儒教で重視される徳・仁・礼・信・義・智を、それぞれ大小に分けて12の階位を定めた。
これは、冠を紫・青・赤・黄・白・黒の濃淡12色にし、官位を表すというモノ。
『隋書倭国伝』に倭国の小徳・阿輩台の名と共に記録が残っている事から、この時代に制定された事は確かなようだ。

推古朝(厩戸皇子)の事績

厩戸皇子は仏教興隆にも力を入れた。
自らは四天王寺を建立し、物部氏征討戦での誓いを果たすとともに、法隆寺を建立。
馬子が法興寺(飛鳥寺)を建立するなど、有力者もこれに続き、同32年(624)には全国で46の寺院を数えるまでになった。
更に「和を大事にし、諍いをしないように」で始まる「憲法十七条」の制定、史書『天皇記』『国記』の編纂、大乗経典の注釈書『三経義疏』の発行と大車輪で働いた。
外交面では新羅征討の為、同8年(600)、弟の来目皇子を将軍とする2万5000の大軍を準備した。
しかし、この遠征は、来目皇子が急死したため、計画は潰えた。

御物『法華義疏』(巻第一の巻頭部分)

御物『法華義疏』(巻第一の巻頭部分)

中国との国交を持つ

推古天皇の御代には、1世紀ぶりに中国との交流を再開する(遣隋使の派遣)。
同15年(607)、小野妹子を隋に派遣。
翌年、答礼使・裴世清(はいせいせい)が来日すると、同年に再び使節を派遣した。
その、高向玄理、僧旻、南淵請安らが留学の為に同行した。

厩戸皇子と蘇我馬子が逝去

同30年(622)、厩戸皇子が斑鳩宮で逝去。
同34年(626)には蘇我馬子も死に、推古政権は推進力の両輪を失った。

推古の崩御後、後継者問題が浮上

同36年(628)、推古天皇も崩御する。
推古天皇は、次に天皇となる皇太子を定めておらず、しかも次期天皇を明確に指名していなかったので、後継者問題が浮上する事になった。


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