丁未の乱

丁未の乱

丁未の乱(ていびのらん)は、587年9月、仏教受容を進める蘇我馬子と、仏教排斥を進める物部守屋との間で起こった戦い。
蘇我軍には厩戸皇子(聖徳太子)も加わっていた。
軍事を専門とする物部軍に対し、蘇我軍は苦戦を強いられたが、守屋が射殺された事により、物部軍は崩壊した。

厩戸皇子の祈願により物部軍が敗北

用明天皇崩御による後継問題

587年に用明天皇が崩御すると、それまで水面下で動いていた後継者問題が本格化する。
物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)の擁立を図り、皇子の下へ使者を走らせた。
本来ならば、物部氏としては、蘇我氏とは無縁の押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)を推すところである。
しかし、この人物が用明天皇崩御直前で、歴史の表舞台から消えてしまった(蘇我氏による暗殺とも云われる)。
そのため、物部氏は仕方なく蘇我氏の流れをくむ穴穂部皇子を擁立したとみられる。

跡継問題と崇仏論争

一方、蘇我馬子は、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ:後の推古天皇)を擁立しようと考えていた。
そして、その為には邪魔となる穴穂部皇子を攻撃しようと行動に出た。
これにより、もともと仏教の礼拝を巡って対立していた物部氏と蘇我氏の直接対決へと発展する事になった。

精強だった物部軍

守屋は河内(大阪府)渋川郡に拠点を構える。
一方の馬子は、泊瀬部皇子(はつせべのみこ:後の崇峻天皇)、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)らと共に物部氏の拠点を襲撃した。
だが、ヤマト政権の軍事を担当する物部軍の前に、蘇我軍は幾度となく撤退を余儀なくされてしまう。
その犠牲者は数百にのぼったともいわれる程であった。

聖徳太子の祈りによって蘇我軍が勝利

このとき、厩戸皇子が霊木で仏教の守護神である四天王像を造り、自らの頭髪を安置して勝利を祈願する。
すると、皇子の祈りが届いたのか、すぐに守屋を射殺する事が出来た。
こうして物部氏は滅亡し、厩戸皇子は、祈願時に約束したとおり、四天王像を祀る為に四天王寺を建立した。

崇峻天皇が即位

その後、額田部皇女は泊瀬部皇子を崇峻天皇として即位させ、用明天皇の後継者問題は、一応の解決をみることとなる。

『河内名所図解』の大聖勝軍寺

四天王に祈願して勝利した厩戸皇子は、摂津(大阪府)に四天王寺を、戦地近くに大聖勝軍寺を建立した。
下の絵画は江戸時代の『河内名所図解』に描かれた大聖勝軍寺
松が生えた守屋の墓(右下)や、守屋の首を洗った守屋池(左中央付近)が描かれている。

『河内名所図解』大聖勝軍寺

『河内名所図解』大聖勝軍寺
国立国会図書館蔵
乱の舞台 大聖勝軍寺


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