継体天皇

第26第 継体天皇

遠方で生まれ即位した天皇

15代 応神の来孫で、先代の子ではない

第26第 継体天皇(450年?〜531年)は近江国(滋賀県)で誕生したが、幼い時に父(彦主人王)を亡くしたため、母の故郷である越前国(福井県)で育てられ、「男大迹王」として越前国を治めていた。

足羽山頂の継体天皇像

足羽山頂の継体天皇像
足羽神社(福井県福井市)は継体天皇が即位する為にこの地を離れる際、自らの生御魂を鎮めて旅立ったのが起源とされる

古事記と日本書紀で記述が違う

諱は「おほど」で、『日本書紀』では男大迹王(おほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(おほどのみこと)と記される。
また『日本書紀』では越前国を治めていたと在るが、『古事記』では近江国を収めていたと記述されている。

本来は皇位を継ぐ立場ではなかった

本来は男大迹王(継体)は皇位を継ぐ立場ではなかった。
しかし、四従兄弟にあたる第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村・物部麁鹿火などの推戴を受けて507年に樟葉宮(ヤマトではない場所)で即位した。

京(ヤマト)の外で高齢即位

継体が即位した時、彼は既に58歳という高齢であったとされるが、そこから更に19年も経った526年にやっと磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや:奈良県桜井市)を営んでからヤマトに入ったという。

苦境な時代に即位する

天皇の権威が弱体化

都に招かれ天皇として即位した彼の治世は、内憂外患に悩まされたものであった。
継体が即位するまでの20年間の間に四人の天皇が即位したが、在位年数はとても短く、21代雄略天皇の頃に比べて権威が弱体化していたのだ。
※四人の天皇とは22代清寧、23代顯宗、24代仁賢、25代武烈

配下は強権を得ていた

逆に、武烈の即位に伴って大伴金村が大連に任命された事で、大伴氏の権力は強大化していた。
512年(継体6年)には、その大伴金村が任那四県を勝手に百済に割譲する事件が起こっており、天皇は豪族を制御できなかったのだ。

朝鮮半島での影響力が低下

朝鮮半島では、大和王権の影響力が急速に低下しており、さほどの強国とはいえない高霊地方の主体勢力だった半路国(はへこく)さえも撃退する事が出来なかった。
派遣軍の副将軍は戦線を撤退し、逃げ帰ってしまう程であった。
百済の4県割譲要求に対しても、批判はあったが結局は受託してしまう。

九州で起こった磐井の乱を鎮圧

国内では九州北部で磐井の乱が勃発してしまう。
527年6月3日、大和王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた朝鮮半島南部の南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。
この計画を知った新羅は、筑紫の有力者であった磐井へ贈賄を渡し、大和王権軍の妨害を要請したのだ。
この乱は、物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣し、辛うじて鎮圧する事が出来た。
>> 磐井の乱

『日本書紀』卷17 継体22年11月条の「磐井鎮圧」記事

『日本書紀』卷17 継体22年11月条の「磐井鎮圧」記事

自身の血筋を後世へ遺す

仁賢天皇の皇女で武烈天皇の妹の手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とし、後の欽明天皇(きんめい)が誕生する。
目子媛(めのこひめ)との間に安閑天皇(あんかん)と宣化天皇(せんか)が生まれている。
6〜7世紀にかけて、欽明天皇の皇子と皇女が次々と即位。
継体・欽明系統の基盤がしっかりと築かれたのであった。

足羽神社の石像

現在の福井県福井市の足羽神社には継体天皇の石像が設置してある。
この神社は、継体天皇が育てられた越前国高向の地を離れる際に、自らの生霊を鎮めて旅立った事に由来する。


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