任那日本府(伽耶)

任那日本府と伽耶

任那日本府と伽耶

伽耶とは何処の事か?

伽耶とは、古代の朝鮮半島南部に存在したといわれる小国群の事。
日本では古来、伽耶の一部を含む地域を「任那」と呼び、5〜6世紀ごろに「任那日本府」という倭国の出先統治機関があったと考えられている。
任那日本府の存在は、「日本書紀」の雄略紀や欽明紀、「百済本記」に見え、宋書倭国伝の記述にも任那という記述が見られ、倭の五王の倭王済や倭王武が宋(南朝)から任那という語を含む号を授かっている。
任那日本府は伽耶諸国を支配した他、百済や新羅などの近隣の国にも影響力を行使し、562年に任那が新羅に併合されるまで存在していた。

4世紀の朝鮮半島

4世紀の朝鮮半島(『山川 詳説日本史図録』より引用)

任那日本府が存在した根拠

  • 日本書紀や、中国や朝鮮の歴史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す史料が存在する。
  • 広開土王碑」という高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑に倭が新羅や百済を臣民としたと記されており、朝鮮半島での倭国の活動が記録されている。
  • 朝鮮半島で日本産のヒスイ製勾玉が発見されている
    勾玉に使われるヒスイ(硬玉)の産地は、東アジアでは日本の糸魚川周辺とミャンマーにしかない
    化学検査により朝鮮の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと一致
  • 日本独特の前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見され、その地は任那四県と呼ばれる任那の一部
  • 宋書倭国伝の記述
    451年、文帝が倭王済に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたと記述
    478年、順帝が倭王武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと記述

考古学的にみる倭と伽耶との関係

鉄蹄

鉄蹄(『山川 詳説日本史図録』より引用)
鉄艇は古墳時代の短冊形の鉄板で、鉄製品の素材として加耶諸国から搬入されたものと考えられている。重さには一定の規格があり、貨幣的な機能もはたしていた可能性がある。(兵庫県宮山古墳)

巴形銅器

巴形銅器(『山川 詳説日本史図録』より引用)
巴型銅器は盾などにつける青銅製の飾金具。魔除けに用いられるスイジガイ(水字貝)を模したものという有力な説がある。日本でのみ出土していたが、加耶の墳墓からも大量に発見され、日本・加耶の緊密な関係が裏づけられることになった。(韓国大成洞13号墳)

当時の伽耶のようす

古代朝鮮半島の歴史書「三国史記」や中国に残る資料によれば、日本が倭と呼ばれていた頃、朝鮮半島は、北に高句麗、南西に百済、南東には新羅の三国が並び立っていたという。
伽耶はその頃、半島南部の、現在の慶尚道(キョンサンドウ)にあたる洛東江流域(ナクトンガン)にあって、いくつかの小国家が連合体を成していたという。
伽耶には、加羅、加耶、伽イ耶、加良、駕洛など様々な呼び名・表記がある。
初期の中心地は、南部の金官伽耶国だった。(体制洞古墳群の発掘が行われた金海市周辺)

伽耶は自然に恵まれた、豊かな土地だった

伽耶には、朝鮮半島では珍しく、豊かな森林があり、しかも洛東江(ナクトンガン)という大河が肥沃な土地を生んだ
伽耶諸国は、互いに独立して、他の朝鮮半島の国々や中国と外交を行い、敢えて統一しなくても、それぞれの小国家が国力を保持しうる独自の力を持っていたという。
初期の伽耶は、もしかしたら新羅より高度な文明国だったかもしれない。
しかし、結局は国が統一される事なく、強大な隣国の圧迫に呑まれる形で6世紀に滅んでしまった。
韓国でも、新羅中心の歴史館が育まれていく中で、伽耶史は記録にも殆ど残されなかった。

日本書紀にみる任那日本府

日本府という言葉はいつから使われていた?

もともと任那日本府という名称は「日本書紀」の記述からきている。
日本書紀に「日本府」という呼称が初めて登場するのは、欽明天皇2年(541年)4月の条である。
「任那の旱岐(かんき)らを日本府と共に百済に召集して、日本天皇の詔を百済の清明王が伝える」といった事が書かれている。
旱岐というのは、6世紀に存在した半島内の首長層の事であり、役人ともいえる。
任那の人々と、日本府の人々とが、百済に集められて、日本の天皇の詔が伝えられたというこの記述から、既にこの時点で、日本府は、朝鮮半島における倭国の出先機関であったと考えられる。

欽明紀に集中

このあと、日本書紀には「日本府」という表現が頻繁に出てくるようになる。
ただし、不思議な事に日本府という呼称を直接使った記述は、継体紀以降、特に欽明紀に集中している。
つまり、6世紀の半ばから後半という、一時期に掛けて目立って多いのである。

神話の時代から任那は存在した?

日本府という言葉に拘らず、「任那」という言葉に絞って「日本書紀」を読んでみると、また違った側面が見えてくる。
日本書紀に「任那」という表記は100ヵ所以上出てくる。
任那関係の記事で一番古いものは、第10代崇神天皇65年の条である。
崇神天皇の時代というのは、神話と歴史の架け橋といえる時代であり、その実在は定かではない。
そうした時代から、任那関係の記事は、もう既に「日本書紀」の中に現れているのである。
記述の内容は「蘇那曷叱知(そなかしち)という任那の人が貢物を持ってきた」というものである。
この記述を史実と考える事は出来ないが、これが、最初の任那に関する記述である。

任那の記述が使われるのは7世紀の半ばまで

神話の時代から始まった任那に関する最後の記述は、大化2年(646年)9月の条である。
「高向博士黒麻呂(たかむくのはかせくろまろ)を新羅に遣わし、質を奉らせ、新羅から任那の調を奉らせる事をやめる」という記事で、任那から調を取るのをやめたという意味である。
これによれば、神話の時代から始まり、7世紀に至るまで、数世紀にわたって任那と呼ばれる国が存在し、倭国はその国に強い権力を振るっていたという事になる。
日本書紀を通じて、古代の大和王権が後世に対して何を残したかったかは定かではない。

任那日本府の存否が示す意義とは?

倭国と任那の関係が断絶してしまったのが、646年との事だが、その前年の645年に乙巳の変というクーデターが起こっている。
この乙巳の変により、強大な力を得たのが中大兄皇子と中臣鎌足であり、後の天智天皇と藤原氏だ。
そして、日本書紀の編纂を命じたのは天智天皇の弟である天武天皇だ。

後世に残す歴史書の編纂を命じた張本人が、権力への道筋を獲得する、その直前まで、倭国が海外領土を有していた、と言っている。
そもそも、古来、日本は「日本」ではなく「倭国」と呼ばれていた
「日本」という言葉が作られたのは7世紀後半であり、神話の時代から「日本」という言葉が存在したはずがないのだ。

「日本」という言葉が出来た頃の人が、「もっと前から「任那日本府」は存在した」、と言っているという事になる。
もしも天智や天武が「任那日本府」という言葉を考え出したのだとしたら、そこにどういった意図があったのだろうか。
当時の大和王権は、外の世界に目を向けていたのかもしれない。


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