戦国武将と天皇・朝廷

戦国武将と天皇・朝廷

室町幕府と友好な関係を築いた朝廷だが、南北朝の統一後、応仁の乱の勃発で権威が失墜、困窮を極めた。
経済的に追い詰められた朝廷を支えたのは各地の戦国武将たちであった。
信長秀吉らによって朝廷の権威は復活するも、江戸幕府によってその力は再び封印されてしまう。

応仁の乱で幕府と朝廷の権威が失墜

皇位を独占した北朝

明徳3年(1392年)に南北朝が合一した時、南朝方は両朝の天皇が交互に皇位に就くという条件を北朝方に取り付けていた。
だが、北朝方の後小松天皇(ごこまつてんのう)が皇位を譲ったのは、自分の子の躬仁親王(みひとしんのう:称光天皇)だった。
しかも称光天皇が崩御すると、北朝方の崇光天皇(すこう)の曾孫にあたる後花園天皇が皇位を継いだ。
北朝方は約束を反故にし、以後の皇統は北朝方で独占されたのである。

応仁の乱で荒廃した都と朝廷

朝廷は、鎌倉幕府とは承久の乱などで対立する機会が在ったが、室町幕府とは概ね友好的だった。
しかし幕府の統治能力が乏しく、応仁の乱が応仁元年(1467年)に勃発すると、幕府と共に朝廷の権威まで失墜した。
応仁の乱は文明9年(1477年)に集結したが、一度衰微した朝廷の権威を復興させるのは容易ではなかった。
戦乱の過程で公家たちの多くが地方へ逃れ、宮中儀式の殆どが中止となった。
11年間も続いた戦乱は京都の町を焦土化させ、御所も三条の橋の上から内侍所(ないしどころ)の灯火が見える程荒廃した。

葬儀・即位の儀式も出来ない朝廷

また皇室御料地は戦国大名に喰い潰され、朝廷の収入は著しく激減する。
後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御した際には葬儀を行う費用もままならず、御遺体を葬るのに時間が掛かるという悲劇も招いた。
そして後柏原天皇(ごかしわばら)は即位の儀式を行う為の費用が足りず、在位22年目でようやく即位の礼を上げる事が出来た。

朝廷を支えた戦国大名ら

「皇室式微(しきび)」と言われる程に困窮した天皇家だったが、その権威を支えたのが大内義孝や毛利元就、上杉謙信といった、都から離れた有力戦国大名だった。
彼らは朝廷に献金し、その見返りに官位や役職を貰い、己の存在感を高めていった。

信長が朝廷権威を回復させた

そして、織田信長が永禄11年(1568年)に上洛すると、衰微した朝廷に変化が訪れる。
このとき信長は、足利将軍家を牽制する為に朝廷を利用する方針を定めていた可能性がある。
皇室御料地の回復、御所の修理資金援助などを行い、朝廷の権威を回復させた。

朝廷権威によって天下統一を果たした秀吉

信長の朝廷保護政策は、家臣で天下人となった豊臣秀吉にも受け継がれた。
関白に任じられた秀吉は、後陽成天皇の聚楽第(じゅらくだい)行幸を行い、諸大名に朝廷への臣従を誓わせた
また抵抗する大名を「天皇の停戦の命令に逆らった」という理由で討伐するなど、秀吉は政権運営を円滑に進める為、朝廷の権威を利用した。

江戸幕府に権力を奪われた朝廷

朝廷権威を恐れた江戸幕府

豊臣政権では優遇された朝廷だったが、徳川家康が江戸幕府を開くと、再び苦境に陥ってしまう。
江戸幕府は外様大名に朝廷が利用されるのを恐れ、それを防ぐ為、朝廷の権利を封印する政策を摂ったのである。

禁中並公家諸法

元和元年(1615年)に「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」が制定される。
これによって、天皇や公家の行動・規範が細かく定められたのだ。
第一条には「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とあり、「天皇の本分は学問である。政治には口を挟むな。」と釘を刺したのである。
更に京都所司代を置き、朝廷の動きを絶えず監視した。
また武家の奏請を朝廷に取り次ぐ武家伝奏という職も朝廷内に設けられ、大納言級の公卿がその任に当たった。

幕府に抵抗した天皇

だが江戸幕府による厳しい統制に、抵抗した天皇も少なからずいた。
寛永6年(1629年)、徳川家光の乳母である春日局(かすがのつぼね)が無位無官のまま参内(皇居に参上)しようとしたが、これに憤慨した後水尾天皇(ごみずのお)は皇位を投げ出し、7歳の興子内親王(おきこ:明正天皇)に位を譲る出来事があった。
明正天皇は2代将軍徳川秀忠の孫にあたり、859年ぶりの女帝となった。
また後水尾の子である霊元天皇(れいげん)も、自著の「乙夜随筆(おつやずいひつ)」で「武蔵野は根本魔所也」と、幕府を痛烈に批判した。
幕府の意向を無視して院政を行うなど、抵抗の姿勢を示した。

徐々に安定する朝幕関係

しかし、18世紀に入ると朝廷と幕府の関係は安定し始める。
中断された朝儀を再興させる動きが出てきた。
皇位継承に欠かせない大嘗祭(だいじょうさい)は文正元年(1466年)を最後に中断していたが、東山天皇(ひがしやま)の代に復活した。
その後、中御門天皇(なかみかど)の代には行われなかった、次の桜町天皇(さくらまち)の代から再び執り行われ、現在に至っている。

幕末期には朝廷権威が再興

また賀茂祭(かもさい)、皇太子冊立(さくりつ)の儀、石清水八幡宮放生会(ほうじょうえ)なども、歴代天皇と朝廷の尽力で復活している。
こうした朝儀再興の過程で尊王論が広まっていき、幕末期尊王攘夷運動に繋がっていく。
幕府と朝廷の関係が改善する事によって、再び朝廷の権威が高まった事と明治維新とは、決して無関係とはいえない。


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