応仁の乱は、1467年から1477年までの期間、日本全国の武士団が東西両軍に分かれて戦った大乱。
将軍家の後継者争い、守護大名の家督争いが実力者の権力抗争に結びつき、11年にも及ぶ大乱が勃発した。
1467年、20万を超える兵が全国から京都に集結し、二手に分かれて11年もの間戦う、という未曽有うの戦乱が勃発した。
世にいう「応仁の乱」である。
この乱の発端は、有力守護大名の畠山氏、斯波氏の二家に起こった家督争いである。
対立する相手同士が、幕府の実力者だった細川勝元(ほそかわかつもと)か山名宗全(やまなそうぜん)のいずれかを後ろ盾とした為、抗争に発展。
さらに、将軍家の跡継ぎ問題まで、同時期に発生してしまった。
跡継ぎがいなかった将軍 足利義政(よしまさ)は、自分には男子が生まれないと考え、弟の義視(よしみ)を後継者に指名した。
しかし、その後、義政に待望の男の子、「義尚(よしひさ)」が誕生する。
これにより、次期将軍は義尚が就任する気運が高まるが、義視(弟)と、義視に近しい守護大名らにとっては、当然、不満を持つ結果となる。
義尚(子)の生母である日野富子は、義視(弟)の後見人である細川勝元に対抗する為、山名宗全に義尚の後見を頼み、義尚を将軍にしようと画策。
ここに至って、両派の対立は避けられないものとなった。
細川方(東軍)は畠山政長(はたけやままさなが)、斯波義敏(しばよしとし)ら約16万で、義視(弟)を担ぐ。
山名方(西軍)は畠山義就(はたけやまよしひろ)、斯波義廉(しばよしかど)ら約11万で、義尚(子)を担ぐ。
開戦前後、東軍が義尚(子)を奉じた為、西軍は翌68年に義視(弟)をかつぐなど、両派の全面戦争は敵味方入り乱れて繰り広げられた。
※お互いが支持していた将軍候補が、入れ替わっている
1473年には、総大将格の山名宗全、細川勝元が病死するが、戦は終わらず、小競り合いが続き、1477年にようやく終結をみた。
この応仁の乱で京都は焦土と化し、幕府の権威は失墜。
世は群雄が割拠する戦国時代に突入していく。
寺院が陣地となり、大名の邸宅を橋頭堡(きょうとうは:橋を守るための砦)にして戦われた応仁の乱。
木と紙でできた建物は面白いように燃え、京都の町は灰塵に帰した。
1467年5月には、革堂(行願寺)、百万遍(知恩寺)などが焼け失せ、酒屋、土倉、民家なども一日で一軒残らず灰になったという。
東軍の陣地となった相国寺は焼失し、鹿苑寺も金閣などを残して焼け落ちた。
乱が終わると、京都では町を立て直すために町衆という自治組織が発展する。
乱を避け、堺などに移り住んだ職工たちも京都に戻り、西軍の本陣があった場所で織物業を再開した。
西陣織という名前はそこから来ている。