鎌倉幕府の滅亡

鎌倉幕府の滅亡

鎌倉時代末期、ときの後醍醐天皇は朝廷の権力を回復し、天皇親政を目指していた。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府の衰退を見逃さず、倒幕計画を実行するも失敗してしまう。
しかし、その後、楠木正成や新田義貞、足利高氏(のちの尊氏)ら武士団の協力を得、ついに鎌倉幕府を滅亡させた。
>> 鎌倉幕府が滅亡するまで年表

元寇の傷が癒えない幕府

13世紀後半、モンゴル帝国が二度にも襲来した元寇
8代執権 北条時宗らの奮闘により、幕府軍は辛うじて勝利する事が出来たものの、決して日本側の傷は浅くはなかったた。
元寇の後、多大な戦費を費やした鎌倉幕府財政は著しく悪化していた。

窮乏する御家人

一方、多くの御家人は、軍功を上げて恩賞を得る事を目的に戦ったが、多大な犠牲を出したのみで見返りは少なく、暮らしは苦しくなっていった。
普通、国内の戦では、勝てれば恩賞として、敵側の土地が手に入るものである。
しかし、先のモンゴル帝国との戦いでは、相手の領土は海外であり、勝ったところで、得られるものが何もなかったのだ

悪化していく治安

この頃、都市や交通の要地に市が立つようになり、御家人は土地などを担保に借上(かしあげ)と呼ばれる高利貸しから借金をするようになるが、所領を失い、さらに困窮する者も出てきた。
幕府は1297年、売却・質入れされた御家人の所領の無償返還を命じる「永仁の徳政令(えいじんのとくせいれい)」を出し、御家人の救済に乗り出した。
その結果、高利貸しは御家人への融資を渋るようになり、御家人の不満は逆に高まる結果に終わった。
また、畿内周辺では体制に反抗する武士「悪党」が出現する。
社会全体に不穏な空気が流れ始めていた。

後醍醐天皇の倒幕

この頃、朝廷は持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいかくじとう)に分裂し、幕府の調停で交互に天皇を即位させていた。
1318年に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は、幕府の干渉を嫌い、2度も倒幕計画を立てたが失敗、隠岐へ流されてしまう。

幕府を討つため、武士団が結集

しかし、1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出して倒幕の綸旨(りんじ)を出し、諸国に挙兵を呼びかけた。
これに応じたのが源氏の嫡流・源義国(よしくに)から分かれた足利高氏新田義貞である。
尊氏は、幕府軍として京都に向かう途中に天皇方に寝返り、六波羅探題を攻略する。
一方、上野で兵を挙げた義貞は鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府は滅亡した。

鎌倉幕府が滅亡するまで年表

西暦 出来事
1185年 平氏政権が滅び、実権が源氏に移る
1192年 源頼朝征夷大将軍に就任
1121年 承久の乱
1246〜1272年 この時期に、天皇の家が分裂する
1274年 文永の役
一度目のモンゴル帝国来襲
1281年 弘安の役
二度目の来襲、恩賞を得られなかった御家人たちの不満が高まる
1297年 ●永仁の徳政令
御家人の救済、保護が目的だったが、効果はあまり出ず、かえって幕府の権威が失墜する
1324年 正中の変(しょうちゅうのへん)
後醍醐天皇が側近らと倒幕計画を企てるが、事前に発覚してしまう。
しかし、後醍醐は釈明して許された
1331年 元弘の変(げんこうのへん)
後醍醐天皇による2度目の倒幕計画も密告によって露顕し、京都を脱出して挙兵するも、幕府軍に敗北する
楠木正成が挙兵する
1332年 ●後醍醐天皇が隠岐へ配流される
護良親王が挙兵する
1333年 ●後醍醐天皇が隠岐を脱出
鎌倉幕府が滅亡
元弘の変の後、楠木正成や護良親王が挙兵、後醍醐天皇も隠岐を脱出して倒幕の綸旨を出す
これに応じて足利高氏が京都で幕府軍を破り、新田義貞が鎌倉を攻め落として、幕府は滅亡した

↑ページTOPへ