この世の春を謳歌していた平家一門だったが、平氏政権は、清盛一人が頼りの脆弱な政権だった。
間もなく、平家に不満を持つ源氏が各地で挙兵、さらには平氏の中にも平家を裏切り、源氏に着く者らが現れる。
源平相乱れる戦い「治承・寿永の乱」の幕が切って落とされた。
>> 源平合戦年表
1180年5月、後白河法皇の子・以仁王(もちひとおう)と摂津源氏の嫡流・源頼政(よりまさ)が、打倒平氏を掲げて挙兵した。
この挙兵は、平清盛をはじめとする平氏一門にとって、寝耳に水の出来事だった。
この挙兵はあえなく失敗に終わるが、以仁王が発した「平氏討滅」の令旨は、源義朝の弟の源行家(ゆきいえ)によって全国の源氏に届けられる。
源頼朝(よりとも)や源義仲(よりなか)をはじめ、不遇をかこっていた源氏らは各地で一斉に兵を挙げた。
緊迫した情勢のなか、平家を悲劇が襲う。
一門を支える大黒柱の清盛が病に倒れ、死去したのである。
この時、長男の重盛は既に亡くなっており、三男の宗盛が跡を継いだものの、この難局を切り抜ける力は持ち合わせていなかった。
1183年7月、平氏は京都を目指して進軍する義仲に対抗する事が出来ず、再起を期して、安徳天皇と三種の神器とともに、京都から脱出する。
平氏は西国で力を蓄えた後に京都奪還を画策するが、義仲を倒した頼朝の大官・源義経(よしつね)の軍略に勝てず、平家一門は遂に壇ノ浦で滅亡した。
一方、強力な東国武士団を率いる頼朝自身は、関東の鎌倉を根拠地として武士政権の樹立に努めていく事になる。
>> 壇ノ浦の戦い
年 | 月 | 出来事 |
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1180年 | 5月 | 以仁王と源頼政が挙兵するが、敗死 |
6月 | 平清盛が福原への遷都を強行 | |
8月 | 源頼朝が伊豆で挙兵するが、平氏方の大庭景親に敗れる | |
9月 | 源義仲が木曽谷で挙兵する | |
10月 | 頼朝が鎌倉に入る 頼朝軍が富士川で平氏軍を撃破する |
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11月 | 情勢悪化により、京都へ再び遷都 | |
1181年 | 2月 | 清盛が死去 |
1183年 | 5月 | 義仲軍が倶利伽羅峠で平氏軍に大勝する |
7月 | 平氏が都落ちし、義仲が入京 | |
10月 | 義仲軍が備中水島で平氏軍に敗れる | |
1184年 | 1月 | 義仲が征東大将軍になる 宇治川で義仲軍と源範頼・義経軍が激突し、義仲敗死 |
2月 | 範頼・義経軍が一の谷で平氏軍を撃破 | |
1185年 | 2月 | 義経軍が平氏の拠点・屋島を攻め落とす |
3月 | 壇ノ浦の戦いで義経水軍と平氏水軍が戦い、平氏滅亡 |