壇ノ浦の戦いは、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。
栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。
源範頼・源義経が率いる源氏軍と、平宗盛・平知盛が率いる平氏軍が戦った。
互いの戦力は戦力は源氏軍が船数830艘(3000艘とも)、船数500艘(1000艘とも)といわれ、数の上では源氏軍が優勢であった。
源氏側は急造の水軍であったが、平氏側は海上ので戦いになれており、序盤は平氏軍が優勢であった。
しかし、潮の流れが変わった事で平氏軍は瓦解し敗北した。
平時子(二位尼)は安徳天皇を抱いて入水し、平氏は滅亡した。
『安徳天皇縁起絵図』赤間神宮所蔵
安徳天皇生誕から、壇ノ浦入水に至る一代を画いたもの。
上部の色紙形の書は伝青蓮院宮筆。
もとは阿弥陀寺(赤間神宮)内の安徳天皇御霊堂の障子絵であったものが、明治になって軸装に改められた。
屋島の戦いで四国の拠点を失った平氏は、長門の彦島(山口県)に落ち着く。
一方の義経は、屋島の戦い後、平氏との最後の戦いに臨むため一ヶ月を掛けて大水軍を編成した。
義経にとっては本格的な海戦はこれが初めてであった。
この期間、義経の異母兄である範頼が、平氏の九州上陸を阻止する為に動いていた。
背後を範頼に抑えられ、東からは義経軍が迫って来る。
平氏軍は完全に包囲された。
1185年3月、義経は畿内を出発し、23日には壇ノ浦の満珠島辺りに到着する。
平氏側は、いつも司令塔として使用している「唐船(からふね)」に安徳天皇が乗船していると見せ掛け、実際には身分の低い者を乗せていた。
平氏側はこの船を包囲した源氏を討ち取ろうとしたが、源氏への内通者がおり、計画は失敗に終わる。
壇ノ浦は時間によって潮流が目まぐるしく変わる。
この事を熟知している平氏は、この潮流を利用した戦法によって序盤の戦いを有利に進めた。
自軍が不利な立場にある事を知った義経は、当時は卑怯とされた戦法であったが、非戦闘員の水夫(かこ)や舵取りを攻撃し、船を立ち往生させる。
源氏軍が予想以上に戦いを長引かせた結果、潮流が逆転する。
戦況も源氏優位となり、夕刻には平氏の敗戦が決定的となる。
二位尼(平時子)は「波の下にも都はございます」と、8歳の安徳天皇を抱いて入水。
平知盛をはじめ、平氏の武将たちも次々と海に身を投げ、宝剣(天叢雲剣)も海に没し(別説あり)、平氏一門は滅亡した。
源平争乱はここに終結した。
なお、安徳天皇に関しては乱後も四国において生き残っていたという説もある。
平清盛の娘・徳子は、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだ。
壇ノ浦の戦いで入水したが助けられ、その後、尼となり、大原寂光院で余生を過ごし、平氏一門と安徳天皇の菩提を弔い続けたという。
戦後、義経は帰京するが、後白河法皇は乱における義経らの武功を讃え、義経と配下の御家人たちを任官させた。
これを知った頼朝は激怒、任官した者たちの東国への帰還を禁じる。
また九州に残っていた梶原景時から頼朝へ、戦いの最中の義経の“驕慢と専横”を訴える書状が届く。
さらに義経が平時忠の娘を娶った事も知らされ、頼朝は激怒したという。
元暦2年(1185年)5月、命令に反して義経は平宗盛・清宗父子を護送する名目で鎌倉へ向かうが、途中の腰越で止められてしまう。
義経は“腰越状”と呼ばれる嘆願書を書いて頼朝へ許しを乞うが、同年6月に宗盛父子とともに都へ追い返されてしまった。
そして宗盛父子は都への帰還途上の近江国で斬首された。
その後、義経と頼朝との対立が強まり、義経は同年10月に後白河法皇に奏上して頼朝追討の宣旨を出させて挙兵するが失敗。
逆に追討の宣旨を出されて没落して奥州藤原氏のもとへ逃れるが、文治5年(1189年)閏4月に平泉で殺された(奥州合戦)。