後白河法皇

後白河法皇

後白河法皇

本来は皇位に付く立場ではなかった

久寿(きゅうじゅ)2年(1155年)に近衛天皇が崩御した後、鳥羽法皇は第四皇子の雅仁親王(まさひと:後白河)を即位させた。
本来ならば皇位に付く立場ではなかったのだが、亡くなった近衛に子がいなかった事、さらには守仁親王(もりひと:二条天皇)という後継者がいたことから、中継ぎ的な役割で即位する事になった。

即位の器にあらずと酷評された若いころ

雅仁は待賢門院璋子(たいけんもんいしょうし)を母とし、崇徳天皇の同母弟にあたる。
若いころは遊興に明け暮れ、今様に熱中するあまり、一晩中歌い明かすことも珍しくなかったといわれる。
こうした暮らしぶりから、父の鳥羽院は「即位の器にあらず」と酷評し、早々に守仁へ譲位する事を期待していた。

保元の乱で、崇徳上皇と対立

だが保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御。
このとき、崇徳上皇の御所には源為義(ためよし)、為朝父子(ためとも)、平野忠正(ただまさ)ら各地の武士が集結し、不穏な空気を漂わせたていた。
これに対し、後白河天皇の側近である信西(しんぜい)は平清盛源義朝(よしとも)といった武士を集めた。
両陣営の緊張が高まる中、突如、後白河天皇方の兵が夜襲をしかけた。
不意を突かれた崇徳上皇方は大混乱し、保元の乱は後白河天皇方の勝利に終わった。

院政を開始し、長期政権を狙う

争いを制した後白河天皇だったが、2年後の保元3年(1158年)には予定通り、この守仁親王に皇位を譲った。
そして自身は上皇となり、院政を開始するが、しばらくは親政を目指す二条天皇と対立する。
本格的な院政が始まったのは、2歳の六条天皇が即位してからの事だった。
仁安(にんあん)4年(1169年)、後白河上皇は出家して法皇となった。

平清盛によって幽閉されてしまう

平治の乱に勝利して権力を拡大した平清盛とは協調体制をとっていたが、やがて政治路線の違いから、両者の間に摩擦が生じ始める。
そして法皇が寵愛していた建春門院滋子(けんしゅんもんいんしげこ:清盛の妻の時子の妹)が亡くなると両者の関係はさらに悪化する。
鹿ケ谷で平氏打倒の陰謀を行うなど、たびたび清盛を牽制した。
治承3年(1179年)、堪忍袋の緒が切れた清盛は遂に後白河を鳥羽殿に幽閉し、院政を停止させるという強硬手段に出る。
しかし清盛が亡くなると、法皇は院政を再開し、平氏が都落ちすると木曽義仲(きそよしなか)や源義経(よしつね)を巧みに操り、武家勢力に対抗した。

武士同士を対立させる戦略

平氏が滅亡すると義経に頼朝追討の院宣を下したかと思えば、義経が敗れると頼朝に義経追討の院宣を下すなど、権謀術数の限りを尽くした。
そんな法皇を頼朝は「日本国第一の天下の大天狗」と評している。
貴族の世から武士の世へと時代が大きく変動する中、皇室の権威を守るために奔走し続けた後白河法皇は、建久3年(1192年)、66歳で崩御した。



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