源九郎義経

源義経

数多の伝説を残した悲劇の武士

源義経(1159〜1189)は鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝の異母弟である。
治承・寿永の乱(源平争乱)において頼朝と共に参戦し「一の谷の戦い」や「壇ノ浦の戦い」で源氏軍を勝利に導いた稀代の戦術家として知られる。
争乱の後、兄の頼朝と対立してしまい奥州藤原氏の平泉へと逃走を計るが、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)の裏切りにより、30歳という若さで自害に追い詰められてしまった。
父は平治の乱で平清盛に敗れた源義朝(みなもとのよしとも)であり、近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女であったといわれる常盤御前(ときわごぜん)である。
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歌川国芳 源頼朝義経対面乃図

『歌川国芳 源頼朝義経対面乃図』
国立国会図書館蔵

常勝将軍と呼ばれた天才戦術家

義経が兄・頼朝と再会を果たしのは頼朝が平家討伐に挙兵の報を聞き、義経が戦場に馳せ参じたのが初めである。
義経が戦で活躍した期間はわずか2年と短いが、それでも「常勝将軍」と呼ばれる程の輝かしい武功を挙げた。
源平争乱の中でも特に重要な戦いに義経は必ず参戦しているのだ。
1184年3月20日に摂津国福原および須磨(現在の兵庫県神戸市須磨区)で行われた戦いでは、岸から馬で駆け降りる奇襲作戦という危険な戦い方で見事勝利を収め、続く「屋島の戦い」では嵐の海の上を船で渡海して平家軍の意表を突く作戦で戦った(現在の香川県高松市)。
そして、平家討伐の最後の戦いである「壇ノ浦の戦い」では水上戦を得意とする平家軍を相手に、水上戦を決して得意とはしない源氏軍を率いて見事勝利を収めた。
この戦いで、追い詰められた平清盛の四男「平知盛(たいらのとももり)」が義経に特攻を掛けた際、義経が波に揺れる船と船の上を華麗に跳んだと云われる「八艘飛び」は有名である。

兄、頼朝により鎌倉入りを禁じられる

数多の武功を挙げて、源氏を勝利へと導いた義経であったが、合戦後の義経の立場は一変してしまう。
戦後、頼朝の待つ鎌倉へと帰路へ立ったが、その途中の腰越にて鎌倉へ入る事を止められてしまったのである。
なぜ義経が鎌倉へ入るのを頼朝が拒否したかは諸説ある。
義経が頼朝に黙って朝廷より官位を受けてしまった事や、戦場にて自分勝手な行動が目立っていたという報告を鎌倉幕府の御家人である「梶原景時(かじわらかげとき)」が頼朝へ伝えた為などと云われる。
いずれにせよ義経は、頼朝へ許しを請うものの、受け入れられず京へ帰る事となる。

悲劇の逃避行

京へと帰り着いた義経を待っていたのは頼朝からの刺客であった。
これに激昂した義経は兄・頼朝との決別を決意し、対決する覚悟を決めた(この義経襲撃事件は、義経側の主張のみであり、当時の他の文献資料にこの記述は見られない)。
しかし、後白河法皇は頼朝へ義経討伐の宣旨を出してしまったために、奥州藤原氏の平泉へと逃避行を開始する。
そして平泉にて、藤原秀衡の死後、息子の泰衡の裏切りにより自害する事なる。

歌川芳虎 文治五年源頼朝卿奥州征伐ノ図

『歌川芳虎 文治五年源頼朝卿奥州征伐ノ図』

なぜ義経は没落したのか

源義経はどうして没落したのか?を簡単にまとめる。

奥州藤原氏のもとにいた義経

東国と奥州の仲介役になり得た

治承四年(1180)当時、義経は奥州藤原氏のもとに身を寄せており、兄・頼朝の挙兵の報を聞き、頼朝のもとに駆けつけた。
その義経と頼朝は「父子の義」を結んだという。
これは、関東を背後から脅かす奥州藤原氏との協調関係を重視したためとされる。

当初、頼朝の後継者にもなり得たが…

頼家の誕生で、後継者からライバルに

頼朝にとって義経は当初、後継者にもなり得る存在であった。
だが、寿永元年(1182)に頼朝に男子(頼家)が生まれたことや、頼朝と奥州藤原氏の関係が緊張するなか義経の地位も不安定となった。

義仲・平家討伐のため上洛、畿内周辺を制圧

翌1183年、義経は上洛し、兄・範頼とともに義仲を討った。
次いで一の谷で平家に勝利し、畿内周辺を制圧した。

義経が京に居座ってから頼朝と不和に

義経は京の治安維持を執り行う

その後、1185年(元暦2年)初頭の出陣まで義経は京に留まり治安維持にあたる。

義経が検非違使に任官(無断の可能性あり)

この間にも義経の出陣の話があったが、これは義経が頼朝に無断で検非違使に任官したため、頼朝の怒りを買って追討使を外されたことが鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』に記されている。(左衛門少尉にも無断で任官したと記される)
しかし、同時期に伊勢・伊賀にて平氏の一族による反乱が起きており、義経が追討使を外れたのは、それに対応するためだったと考えられる。
検非違使の任官は頼朝も認めたものであった可能性がある。

頼朝を無視して、上皇と繋がった義経

西国で平家追討にあたっていた範頼の苦戦が京都に伝えられるなか、義経は自ら出陣することを後白河上皇に申し入れる。
これも義経が頼朝の許可を得ず独断で行ったものとされ、義経は京都滞在中に頼朝からの不信を買っていたようだ。

平家滅亡が、義経の運命の分かれ道に

三種の神器、安徳天皇の消失

義経は西国武士を動員し、元暦2年(1185)3月、平家を滅ぼすことに成功した。
この時、三種の神器は海中に消え、安徳天皇まで死なせてしまった事は、頼朝にとっても痛手となった。

出世の機会を奪われた武士らの反感

さらに、義経が平家を討伐し切った事で、それにより勲功の機会を奪われた東国武士の反感を買うことになる。

義経を飼いならしたがる後白河

また、後白河院にとっても、長期にわたって都で活動した義経は自らの貴重な武力となっていた。

「腰越状」は実際にはなかった可能性

さらに、義経の管理していた没官領の処遇問題もあり、頼朝と義経の関係は悪化しつつあったが、まだ破綻したわけではなかった。
この間、義経が頼朝に訴えた著名な「腰越状」だが、これは後世の偽作の可能性が高い。 『吾妻鏡』は編纂者の北条氏の都合が良いように書かれてあるため、『吾妻鏡』の記述は注意して観る必要がある。

頼朝との関係が破綻

義経、鎌倉への帰還命令に応じず

8月以降、頼朝は、義経が検非違使を辞し鎌倉に帰還するよう取り計らったが、義経は帰還しなかった。
ここに両者の関係は破局を迎える。

『吾妻鏡』でも、義経は鎌倉に帰還しなかった

『吾妻鏡』によれば、義経が鎌倉に戻ろうとするも、それを頼朝が拒絶したとある。
いずれにせよ、『吾妻鏡』でも「義経は鎌倉に帰還しなかった」とされており、これが決定的な義経と頼朝の決裂となった。

義経が襲撃される

10月、義経は京にて頼朝配下の武士の襲撃を受ける。
この襲撃が頼朝の命令によるものかも諸説あり、真相は不明である。
しかし、義経としては頼朝の仕業を疑った事だろう。

最期は奥州藤原氏の裏切りに遭う

義経は、後白河から頼朝追討の宣旨を引き出すも挙兵に失敗、逃亡途中で行方を暗まし、後に再び奥州藤原氏のもとに身を寄せたが、その裏切りに遭い生涯を終えた。

源九朗義経

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