屋島の戦い

屋島の戦い

屋島の戦いは、平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)に讃岐国屋島(現高松市)で行われた戦いである。
治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。
平氏の本拠地であった屋島に、源義経が奇襲攻撃を仕掛けて勝利した。
義経軍は嵐の中を渡辺津(淀川河口)から勝浦(徳島市)に5艘の船で上陸して屋島に迫り、民家に放火しながら背後から急襲した。
少数精鋭だった義経らを大軍と勘違いした平氏軍は陣地を捨てて海上の軍船へと逃れた。
義経の奇襲部隊が大軍ではないと知った平氏軍は、引き返して激しい弓戦が始まったが、源氏の援軍により逃走し、平氏軍は瀬戸内海の制海権を失った。

扇の的『平家物語絵巻』巻十一

扇の的『平家物語絵巻』巻十一

屋島の平氏軍を義経が奇襲

水軍を持つ平氏と持たない源氏

一の谷の戦いで大敗を喫した平氏は、讃岐の屋島に拠点を置く。
水軍を持つ平氏は瀬戸内海を支配下に置いていたが、水軍を持たない源氏は屋島への攻撃に踏み切れずにいた。

義経軍が四国に上陸、平氏は海へ逃げる

一方、源頼朝は弟・義経に平氏追放を命じる。
義経は熊野水軍伊予水軍などを味方に付けると、1185年2月16日夜、摂津を出て四国へと向かった。
17日暴風のなか、阿波勝浦(徳島県)へ上陸すると、平氏の防御線を突破し、18日に屋島に到達。
※現在の屋島は孤島ではないが、この頃の屋島は独立した島になっていた(江戸時代の新田開発で現在の地形へと変わった)
義経は大軍の襲来と見せかける為に民家を放火しながら平氏軍を背後から急襲した。
海からの攻撃に備えていた平氏はこの奇襲攻撃に混乱し、船に乗り込んで海上に逃れた。

屋島古戦場((屋島山上より)

屋島古戦場((屋島山上より)

海上から平氏軍の猛攻が始まる

義経軍に慄き海へ逃れた平氏軍であったが、義経軍が想像以上に少ない事を知ると、船を引き返して船上から大量の矢を射ってくる。
この猛攻により、平教経の放った屋で義経が射られそうになるが、佐藤継信が義経の盾となって討死する。
(『吾妻鏡』によれば、教経は一ノ谷の戦いで討ち死にしている)

『嗣信最期』

『嗣信最期』(下村観山 1873-1930)
義経の郎党(従者)であった佐藤嗣信の絶命の場面
東京芸術大学大学美術館(蔵)

扇を射る那須与一

那須与一(なすのよいち)が扇の的を射るのは夕刻の一時休戦状態になったときである。
平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。
外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。
十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦、与一はこれを引き受ける。
小舟の先に立てられた扇を那須与一が弓で射たといわれるが、扇までの距離は40間(約70m)も離れていたという。
与一は「射損じたならば、自害せん」という覚悟で臨んだという。

平氏軍は敗走

こうして一進一退の攻防が続くなか、21日に平氏軍の一部が、屋島の東側にある志度湾から上陸し、義経軍の背後を衝こうとするが、義経はこれを撃退。
22日には梶原景時(かじわらかげとき)が率いる源氏主力軍が援軍に駆けつけた為、平氏はこれ以上の戦いは無理だと判断して屋島を去り、長門(山口県)へと逃れた。

義経が水軍を編成

屋島の陥落により、平氏は四国における拠点を失った。
既に九州は範頼の大軍によって押さえられており、平氏は彦島に孤立してしまう。
義経は水軍を編成して、最後の決戦である壇ノ浦の戦いに臨むことになる。


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