キリスト教の伝来

キリスト教の伝来

1549年、宣教師ザビエルにより日本に伝わったキリスト教だが、その信仰を恐れた為政者により苦難の歴史をたどる事になる。

仏教伝来から約1000年後、キリスト教伝来

1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは鹿児島に上陸し、日本に初めてキリスト教を伝えた。
ザビエルは日本に滞在した2年間、九州・中国地方を中心に布教活動を続けた。
天皇に不況の許可を得る為、京都にも訪れたが、荒れ果てた御所をみて断念し、京都を去ったという。

大名の保護を受けた宣教師

ザビエルが日本を離れた後も、将軍足利義輝に布教の許可を得たガスパル・ヴィレラ織田信長豊臣秀吉の保護を受けたルイス・フロイスオルガンティノらによって布教は続けられた。
宣教師は病院や孤児院を建設し社会奉仕も行った為、次第に信者の数は増え、1582年には15万人にまで達した。

キリシタン大名

キリスト教は西国の大名に保護され、洗礼を受けた大名、キリシタン大名もいた。
その背景には、南蛮貿易の利益や鉄砲の火薬原料である硝石(しょうせき)を得ようとする目的もあった。

天正遣欧使節

1582年にはアレッサンドロ・ヴァリニャーニの発表で、九州の3人のキリシタン大名、大友氏、大村氏、有馬氏の名代として、伊東マンショら4人の少年をローマ教皇のもとへ派遣している。

秀吉・家康によるキリシタン弾圧

1587年、秀吉は九州平定の帰途、博多でバテレン追放令を出し、宣教師に20日以内の国外退去を求めた。
布教によって日本を植民地化しようとするポルトガルの企てや、日本人の奴隷売買を阻止する為のものだったが、貿易は奨励した為、効果は上がらなかった。

26聖人殉教

1596年には、スペインが布教を植民地拡大の為に利用しているという疑念を拡大させたサン・フェリペ号事件を切っ掛けに秀吉は石田三成にキリスト教信者の逮捕と処刑を命令。
逮捕された26人の宣教師、信者は長崎に送られて処刑された。

江戸幕府の禁教令

徳川家康は、はじめキリスト教を黙認していたものの、1612年に幕僚に禁教令を出し、翌年、全国に拡大。
日本のキリスト教は冬の時代を迎えた。


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