家康が駿府に隠居

家康が将軍職を辞し、駿府へ移住

征夷大将軍に就任し天下人となった家康だったが、わずか2年にして将軍職を辞し、子の秀忠に将軍職を譲る
そして、家康は駿府に隠居したのち、自身は大御所として徳川の長期安定政権を目指す事になる。
駿府は家康が幼少期を過ごし、五カ国の太守となった場所であった。
どうして、家康は再び、駿府の地に戻ったのかも見てみる。

駿河花見

志豆機山(賤機山)で花見を催す家康
『東照社縁起絵巻』第二巻「駿河花見」

秀忠に将軍職を譲る

家康が秀忠を次期将軍に指名

慶長10年(1605)4月、家康は征夷大将軍職を子の秀忠に譲る許可を朝廷に求めた。
つまり、家康は“自らの後継者を秀忠に指名”した事になる。

後継者について、家臣間で意見が分かれていた

家康には16人の子どもがいたが、そのうち11人が男子であった。
嫡男の信康が自刃に追い込まれていた事から、家康は秀忠を最有力な跡継ぎ候補として扱っていた。
しかし『徳川実紀』によると、家康の跡継ぎを誰にするかは家臣の間でも意見が分かれていたという。
本多正信は次男・秀康を、大久保忠隣は三男・秀忠を、井伊直政は四男・忠吉を推していた。

秀忠は“関ヶ原の戦いに遅刻”し低評価された

秀康は既に結城氏を継いでおり、小牧・長久手の戦い後に人質として秀吉の下に送られ、その養子にもなっていた。
しかも、実母の於万の方が正室・築山殿の侍女であった事と、さらには家康自身が実子であるとの確信がもてなかった為、なかなか認知しなかった。
秀忠は、関ヶ原の戦いに遅参した事で、武将としての評価を下げていた
忠吉は関ヶ原の戦いで、井伊直政とともに活躍している。
家臣の意見を聞いた家康は、最終的に自分の判断で秀忠を後継者に決めた。

控えめな形で、秀忠の将軍就任が許可

家康の推挙が朝廷に奏上され、無事に秀忠を征夷大将軍にする事が認められる。
ただし、源氏長者とその他の別当職については、引き続き家康が補任されている。
※別当職とは、武器を持ち、家臣を引き連れ、牛車に乗ったまま内裏の門から入る事ができる権利など

駿府を隠居の場所に選ぶ

駿府は家康が長らく過ごした場所

秀忠が二代将軍になると、家康は江戸城を秀忠に譲り、駿府に隠居する事にした。
駿府は家康が今川氏の人質として幼少期を過ごし、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五カ国の太守となった時に本拠とした場所である。

家康は、秀吉から“駿府を盗られた”

天正18年(1590)に家康が秀吉の命令に従って江戸城に移った後、駿府城には秀吉の家臣・中村一氏が14万5千石で入った。
これは家康の抑え込むための秀吉の戦略であり、この時、堀尾吉晴と山内一豊を、それぞれ浜松城と掛川城に置いている。
しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、いずれも家康に従ったのだった。

関ヶ原の戦い後、駿府を取り戻す

家康はやはり、駿府城に豊臣恩顧の大名がいる事を快く思ってはいなかった。
戦後の論功行賞で、家康は中村一氏の子・一忠を加増のうえ伯耆米子に転封させると、駿府城には4万石で内藤信成を入れた。
内藤信成は『徳川幕府家譜』などによると、家康の父・広忠の庶子だという。
つまり家康は、自身の異母弟に駿府城を与えた事になる。

何故、駿府を選んだのか?

家康は何故、隠居に際して駿府城を居城に選んだのか?
『廓山和尚供奉記』という記録によれば、家康自身は次のように語っている。

  1. 幼少時代を過ごした思い出がある
  2. 冬暖かくて過ごしやすい
  3. 米がおいしい
  4. 自然の要害に守られている
  5. 参勤交代する大名も立ち寄りやすい

以上の5つの理由をあげている。
どれも事実であると考えられ、特に注目されるのは、駿府を要害堅固な土地を見做していた事である。

豊臣から“江戸を守る”為の前線基地が駿府

家康が秀忠に征夷大将軍職を譲ったという事は、“政権を世襲する”事を公言したに等しい。
そのため、いずれは“秀頼に政権を返上する”という期待を抱いていた豊臣方を刺激する事にもなる。
家康としては、いずれ、豊臣方と一戦を交えるときが来ると覚悟していたのだ。
家康は、豊臣方の大軍が江戸を攻めるような事になった場合には、駿府城で防戦しようと考えていた。

本能寺の変の二の舞を避ける為?

家康がかつて同盟を組んでいた織田信長は、家臣・明智光秀の謀反で討たれている。
信長の最大の失敗は、自身とともに嫡男・信忠まで討たれてしまい、一夜にして織田家の天下が終りを告げた事にある。
信長と秀忠は本能寺の変の際、父子共に京都に滞在しており、極めて“謀反されやすい環境”に在ったのだ。
その為、家康は、万一自身が謀反で討たれても、確実に秀忠が生き残る様に、江戸を出る事を選んだとも考えられる。
いずれにせよ、家康が駿府を隠居先に選んだ理由は“徳川家を存続させる”事に在ったのだろう。

駿府城を大改修する

「天下普請」で諸大名らが改修を請け負う

慶長11年(1606)、家康は内藤信成を近江長浜に移すと、翌慶長12年(1607)正月、駿府城の改修に取り掛かる。
改修が命じられた大名は、池田輝政・池田長吉・加藤嘉明・有馬豊氏・蜂須賀至鎮・松平忠利・松平忠頼・伊東祐慶・分部光信・毛利高政・古田重治らの14家であった。
家康が諸大名に命じたような工事を天下普請というが、これは諸大名の経済力を削ぐとともに、主従関係にある事を目に見える形で知ら示す目的もあった。

駿府城天守閣

東海道図屏風(駿府)における駿府城天守閣

川も整備し、町を水害から守る

なお、工事は築城だけではなく、駿府城の近くを流れる安倍川を大きく迂回させるための築堤にまで及んだ。
それまで、安倍川は駿府の町を乱流していたが、城下町を水害から守り、また、城下町を一つにまとめる為、流路の変更に取り掛かった。

駿府城城下町

東海道図屏風(駿府)における駿府城城下町

土塁としても機能する堤防・薩摩土手

この築堤を命じられたのが、薩摩の島津家久であった。
そのため完成した堤防は現代でも薩摩土手と呼ばれている。
この薩摩土手はかなり大掛かりなもので、駿府城の西端を守る土塁としての意味合いもあったという。
家康は、敢えて外様大名に築堤を命じる事で、家康に対して謀反を起こさせない様にしたとも云われている。

一回、火事に遭った駿府城

家康は当初、駿河の田中城にいながら工事の指揮を執っていたが、7月、ほぼ完成したところで駿府城に入った。
しかし、その駿府城は、完成して半年も経たない12月に火災で焼失してしまう。
そのため、一時避難をした家康は、翌慶長13年が明けるとすぐに再建を命じる。
昼夜兼行の突貫工事により、早くも3月には本丸御殿が完成し、家康も駿府城に戻った。

大御所・家康

家康自身は“隠居”などと一言も言ってない

駿府城は、家康の隠居城として改修されたわけだが、家康自身が“隠居を公言”したわけではない。
将軍職は秀忠に譲ったとはいえ、大御所として実権を握っていたからである。

将軍と大御所の二元政治

大御所とは将軍職を退いた人物を指す。
家康がだけが、将軍職を辞した後に大御所と呼ばれたわけではないが、将軍職を辞してからも実権を握り続けていた事もあり、一般的には、大御所といえば家康を指す事が多い。
勿論、江戸城にいる秀忠も、将軍としての権力は持っており、ここに将軍秀忠と大御所家康の二元政治が行われる事になった。

家康によって駿府が発展

京都、大坂、江戸に次ぐ大都市へ

大御所としての家康が政治の実権を握っていた事で、駿府の城下町も次第に発展していく。
駿府を訪れた外国人の記録によれば、家康在城時における駿府の人口は12万人とも10万人とも云われる。
当時の大都市の人口は、江戸で15万、京都で30〜40万、大坂で20万というから、それに次ぐ大都市になっていた事が分る。

徳川家と駿府の関係

なお、元和2年(1616)に家康が死去した後、駿府には家康の十男・頼宣、秀忠の三男・忠長が入ったが、その後は幕末に至るまで城代が置かれていた。
しかし、徳川家と駿府の縁は、その後も続く。
明治維新後には徳川宗家16代となった徳川家達が初代静岡藩知事として入っている。
このとき、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜は、駿府で謹慎し、謹慎が解かれた後も、駿府で隠居生活を送った。


↑ページTOPへ