家康の五カ国領有

徳川家康が五カ国領有へ

今川義元の下から独立を果たし、尾張の織田信長と同盟を結んだ後、三河の覇者となった徳川家康。
続いて家康は、三河から遠江へと勢力を伸張していく事になる。
武田信玄との激闘をはじめ、幾多の合戦を戦い抜いた浜松城時代。
武田氏の滅亡によって、家康は五カ国領有の大大名へと躍進する。(五カ国統治時代)

今川氏の滅亡

徳川と武田が今川領へ侵攻を始める

永禄11年(1568)、武田信玄が今川氏真との同盟を破棄して駿河への侵攻を開始した。
これを受けて家康も、今川氏の領国である遠江へと進出を図る。
このとき家康は、駿河を武田氏が併合する代わりに、遠江を徳川氏が併合するという密約を信玄に持ち掛けられたというが、史実であったかどうかは分からない。
家康が引佐郡の井伊谷三人衆といわれる菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時を道案内として遠江に侵入すると、高天神城主・小笠原氏助や馬伏塚城主・小笠原氏興といった氏真の家臣が家康に降伏した。

今川氏真が降伏、北条氏の下へ逃走

その頃、氏真はというと、居館のある駿府まで武田軍に攻め込まれた為、重臣・朝比奈泰朝を頼って遠江の掛川城まで逃れている。
しかし、家康がただちに掛川城を包囲した為、不利を悟った氏真は、永禄12年(1569)5月、降伏開城して、海路から相模の北条氏康を頼って落ち延びていった。
氏真の正室が氏康の娘だったからである。

家康を遠江の平定を進める

こうして、200年以上にわたり駿河・遠江に覇を唱えた戦国大名・今川氏は滅亡した。
家康は、今川遺臣の抵抗を抑えながら、遠江の平定を進めていった。

姉川の戦い

信長による朝倉討伐

家康が遠江平定に乗り出した頃、家康の同盟者である信長は、将軍・足利義昭を擁して上洛し、室町幕府の実権を握っていた。
信長は「天下静謐」を名目に諸国の大名の上洛を命じたが、越前の朝倉義景は従わなかった。

信長窮地、金ヶ崎の戦い

このため、元亀元年(1570)4月、信長は朝倉義景を討つ為、越前への侵攻を開始したのである。
この越前攻めには家康も参陣していたのだが、信長と同盟を結んでいた北近江の浅井長政が突如として朝倉方に寝返った為、作戦は失敗してしまう(金ヶ崎の戦い)。
家康は信長と共に越前から撤退して京に戻った後、ようやく居城の岡崎城に戻る事が出来たのであった。

姉川の戦い勃発

一方、岐阜に戻った信長は、2カ月後の6月、謀反を起こした浅井長政を討つ為に北近江へ侵攻する。
家康も5千の軍勢を率いて参陣した。
これに対し、朝倉義景も浅井長政に加勢した事から、6月28日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が“姉川”を挟んで激突する。
この戦いを「姉川の戦い」という。

徳川・織田の辛勝

江戸時代に記された軍記物語では、徳川軍の奮戦により朝倉軍が崩れ、織田軍が浅井軍を撃破した事で、浅井・朝倉連合軍が破れた事になっている。
ただし、徳川軍の活躍を誇張している部分もあるので、どこまでが史実なのかは分かりにくい。
いずれにしても、この姉川の戦いで浅井・朝倉軍が壊滅したわけではなく、その後も信長と家康は苦境に立たされる事になる。

武田信玄の脅威

浜松城へ居城を移す

その頃、家康は嫡男の信康に岡崎城を譲ると、遠江の曳馬(引馬)城を大幅に回収して「浜松城」と改め、自らの居城としていた。
三河・遠江二カ国の大名となった家康にとって、岡崎は両国の西に偏り過ぎていたのだろう。
しかし、それ以上に重要だったのは、駿河を併合した武田軍の動きであった。
家康は武田軍が遠江に侵入して来る事を危惧していたのである。

信玄が三河へ侵攻開始

元亀2年(1571)3月、信玄が2万3千の大軍を率いて信濃から三河に侵入してきた。
武田軍が野田城を落として吉田城に迫ると、家康も2千の兵を率いて吉田城の救援に向かう。
結局、織田氏や北条氏の動きを警戒した信玄が撤退した事で窮地は救われた。

信玄が遠江へも侵攻開始

しかし、武田氏と対立していた相模の北条氏康が没すると、後を継いだ子の氏政は、信玄の娘を正室に迎えていた関係で信玄と同盟する。
これにより信玄は、相模に備えていた軍勢を、遠江に割く事が出来るようになったのである。

三方ヶ原の戦い

家康の前を素通りした信玄

そして元亀3年(1572)、遂に信玄が2万5千の軍勢を率いて、遠江に侵攻して来た。
だが武田軍は家康の居城である浜松城を攻める事はせず、三方原台地からそのまま西へ進軍していく。
浜松城を攻めれば、時間を浪費すると考えた為と思われる。

信玄を背後から追撃した家康

このとき家康が動員できたのは8千にすぎない。
信長からの援軍3千を足しても、1万1千ほどにしかならなかったが、家康は浜松城を打って出る事にした。
なぜ家康が打って出たのかは、実際のところ理由は分からない。
ただ、信長と同盟している以上、素通りさせる事が難しかったのかも知れない。
三方原台地を武田軍が下るとき、背後から追撃すれば勝算があると踏んだとも考えられる。

家康の完敗と敗走

しかし、徳川軍の動きは信玄に読まれていたという。
武田軍は三方原台地を下る事無く、徳川軍を待ち構えていたのだ。
ここに、三方ヶ原の戦いが始まった。
16時頃に始まった戦闘は2時間ほどのち、徳川軍が総崩れとなった時点で終わっている。
家康自身、命からがら浜松城に帰還する程の完敗で、この戦いにおける徳川軍の死者数は800程であったという。

信玄の急な「撤退」で窮地を脱する

なお、このあと家康が「空城の計」を用いて浜松城の城門を開けたままにした為、警戒した武田軍が攻めあぐねたというが、俗説にすぎない。
武田軍はそのまま西上を進めたが、翌天正元年(1573)4月、信玄が陣没し、家康は危機を脱する事が出来た。

武田から長篠城を奪取

隠される筈だった“信玄の急死”

信玄の死は遺言により“三年の間”、秘密にされたという。
しかし、家康は早い段階から不審を抱いていたらしい。
早くも軍勢を駿河に侵入させているが、武田軍の反応を確かめようとしたのだろう。
武田軍のこれまでとは違う動きから、家康は信玄の死を確信する。

家康が長篠城への攻撃を開始

信玄の死から、武田氏の混乱を見抜いた家康は三河に出陣し、武田方に付いていた菅沼正貞の長篠城を攻撃した。
長篠城が武田氏による三河侵攻の拠点となっていたからである。
信玄の跡を継いでいた武田勝頼も、三河や遠江に軍勢を派遣するなど、長篠城を死守しようとした。
しかし家康も、作手城主・奥平定能を武田方から寝返らせる事に成功し、武田方の勢力を駆逐していく。

家康が武田内部の亀裂を見抜く

この時、武田方の人質となっていた奥平定能の子は勝頼によって殺されている。
家康は、定能の子・信昌に長女・亀姫を嫁がせる事を約束した。
家康にとって、奥平氏の寝返りは、それだけの意義があったのである。
奥平氏の活躍により、長篠城を落とす事に成功すると、家康は長篠城を奥平信昌に守らせる事にした。

長篠・設楽原の戦い

武田に高天神城が奪われる

奥三河で徳川方と武田方の勢力がせめぎ合うなか、天正2年(1574)、武田勝頼が2万5千の大軍を率いて遠江に侵入、駿河と遠江の国境に近い高天神城を攻撃してきた。
この高天神城を守っていたのは、今川氏の旧臣・小笠原氏助である。
氏助は家康に救援を求め、危機を知らされた信長も自ら援軍を率いて出陣したのだが、援軍が着陣する前に高天神城は落城してしまう。
こうして、高天神城は武田方による遠江侵攻の拠点になってしまったのである。

長島城奪還を目指す武田と、迎え撃つ織田・徳川

こうして勢いを得た勝頼は、天正3年(1575)に三河に侵入して徳川方に奪われた長篠城の奪還に乗り出す。
この時、長篠城を守るのは奥平信昌ら500にすぎず、信昌は家康に援軍を求めた。
家康は、信長にも支援を要請し、織田・徳川連合軍は長篠城の西にある設楽原に着陣した。
軍勢の数は、織田・徳川連合軍1万8千、武田軍6千であった。

武田軍の撃退に成功

戦闘は、5月21日の6時頃に始まり、織田・徳川連合軍は、予め設けていた馬防柵により、武田軍の進撃を阻む。
結局、勝頼は馬防柵を突破する事が出来ずに敗北した(長篠・設楽原の戦い)。

正室・築山殿と嫡男・信康の死

築山殿が信康が武田氏に内通していた

長篠の戦いで武田勝頼は敗北したものの、依然として遠江に兵を出す程の余力は残っていた
家康の嫡男・信康には、信長の娘・徳姫(五徳)が嫁いでいたのだが、そうしたなか、徳姫が信長に信康とその母・築山殿が武田氏に内通していると訴えたのである。
このため、信康は自刃を命じられ、築山殿は殺害されてしまった。

築山殿と信康の死には謎が多い

広く伝わる通説としては、信長が家康に命じたというが、事実であったかどうかは分からない。
同盟に亀裂が入るような事を信長が強行したとも考えにくく、家康が自らの判断で処置を決めた可能性の方が高いといえる。
『信長公記』などには、信長は「家康の思い通りにせよ」と言ったと記されている。
家康の受信と信康との間で確執があったとも云われているが、もしそうだとした、家臣団の統制の為、妻子を犠牲にした事になる。
築山殿と信康の死には謎が多い。

武田氏の滅亡

高天神城を奪還

天正2年(1574)に高天神城が武田勝頼に攻略された後、家康は周囲に付城を築いて高天神城を包囲していた。
しかも、このころ勝頼は北条氏政と断交しており、高天神城には兵糧米も搬入されなくなっていた。
これを好機ととらえた家康は、天正9年(1581)、高天神城を総攻撃したのである。
これにより、城将・岡部長教武田方の城兵は玉砕し、落城した。

高天神城の陥落で、武田の弱体化が露顕

家康が高天神城を奪還した意義は大きい。
これにより、勝頼は遠江への侵攻を諦めざるを得なくなったからである。
高天神城を救援すら出来なかった武田氏の権勢にも陰りが見え始めていく。

武田氏滅亡で、家康は駿河を得る

武田氏が弱体化するなか、信長は遂に甲斐への侵攻を決断した。
天正10年(1582)2月、信長が美濃から侵攻すると、家康も駿河から甲斐へと侵攻し、甲府に入った。
ちょうどその日、勝頼は田野の戦いに敗れ、自刃していた。
ここに戦国大名・武田氏は滅亡したのである。
甲斐攻めの論功行賞により、家康は武田氏の旧領のうち、駿河一国を得る事となった。

家康が五カ国の太守に

本能寺の変で信長が横死

武田氏の滅亡により、かつての今川義元と同じく駿河・遠江・三河の三カ国を治める大名になった家康であるが、その統治が安定する事はなかった。
6月2日、同盟する信長が本能寺の変で殺されてしまったからである。

信長の死で、再び各地で戦火が

甲斐では武田遺臣による一揆が起こり、甲斐を与えられていた河尻秀隆が殺されてしまう。
信長による甲斐侵攻に従っていた北条氏政も、混乱に乗じて武田氏の旧領を併合しようとする。

徳川vs北条 天正壬午の乱

信長死後の混乱に対し、家康も武田旧領に軍勢を派遣した為、甲斐・信濃・上野を巡り、徳川軍と北条軍で争う事になった。
これを天正壬午の乱という。
対陣は四カ月ほど続いたが、家康は、娘の督姫を北条氏政の子・氏直に嫁がせるという条件で和睦した。

家康の五カ国統治時代へ

こうして、武田の遺領は、徳川氏が信濃・甲斐、北条氏が上野を獲得する形で分割されたのである。
家康は、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五カ国を領有する大名となった。


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