戦国時代の信仰(宗教)

戦国時代の信仰

戦乱が続く時代にあって、人々は何を心の支えとしたのか?
武将は仏の教えで死の恐怖を消し、手を合わせて殺生の罪を懺悔したという。
戦国時代の「信仰」とはどんなものだったのかを見てみよう。
このページでは「一向宗(浄土真宗)」や「キリスト教」についても記述する。

目次

心・家・教育・葬儀・供養を仏教が支える

仏教は6世紀頃、日本に伝えられ、平安時代の初期、最澄が天台宗、空海が真言宗を開く。
平安末期から鎌倉時代の初期に掛けて、法然が浄土宗、親鸞が浄土真宗、栄西が臨済宗(禅宗)、道元が曹洞宗(禅宗)、日蓮が日蓮宗、一遍が時宗を改宗する。
当初、仏教は天皇家や貴族など特権階級のものであったが、鎌倉以降、武家に広がり、庶民化されていく。
各宗派が全国に布教の輪を広げた事、葬儀の需要が在った事もあり、寺院数は増えていく。

殺生は地獄往き

宗旨が庶民の為に分かりやすく説かれていく一方、仏教独自の世界観も流布していく。
命ある者は悟りを開く、あるいは諸仏の救いがない限り地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天上界の六つの世界で生死を繰り返していく。
これを六道輪廻という。
その死後の世界は閻魔王などの裁判により決められていく。
特に殺生は地獄往きである。

殺生は“悪”と分かって戦った武将ら

これらの仏教思想を知りながら、平清盛率いる平家は戦った。
鎌倉幕府を開いた源頼朝も北条一族も、室町幕府を開いた足利尊氏も同様である。
そして、全国時代、戦はさらに激化していく。

仏の教えで現世を支える

武将と「死」は常に背中合わせである。
自分だけではなく愛する妻子、家族、一族、家臣や領地を支える民も、いつ、誰に殺されるか分からない。
戦に勝っても負けても死者はでる。
武将は現世での死の恐怖が消える仏の教えを開き、殺生の罪を懺悔し手を合わせた。
勝利を願い、死後は仏国土に迎えられる事を祈ったのだ。

寺院と武家の密接な繋がり

元寇のとき、北条時宗に「莫妄想(まくもうそう:今やるべき事を行う)」とアドバイスしたのは宋の禅僧・無学祖元(むがくそげん)であった。
室町幕府を開いた足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うために天龍寺を開いた。
臨済宗の僧侶・夢窓疎石の薦めである。
将軍家の葬儀も禅宗方式であった。
更に、子供が生まれた場合、家督を継ぐ長男は将軍家が育て、他の兄弟は出家させ、寺院に預けた。
長男が病気や戦死した場合、寺から他の者を還俗させ家督を継がせる為である。
寺院は後継者の教育機関であり、後継者候補の保護地でもあった。
また、子供を出家させる事で、一族並びに敵方の菩提を弔う役目もある。
この方法は他方の守護大名、戦国大名に影響を与え、家の存続と仏教は深く関わるようになっていく。

僧侶も家臣の一人、名将の陰に禅僧あり

禅僧はズバ抜けた知識人だった

戦国時代の名称は優れた家臣団を持っているだけではなく、ブレーンも持っていた。
その役目を果たしていたのが、高僧であり、名僧たちである。
彼らは仏教の教えだけではなく、儒教や道教、易学、更に軍事技術、兵法、調略にも精通し、時には敵方と外交も行った。
重要な書物、最新の情報は寺院が持っていた為、戦略上、欠く事が出来なかった。

名将らを教育した禅僧たち

足利将軍家親戚にあたり、征夷大将軍の継承権を持つ名家が今川家である。
今川義元は還俗して家督を継ぐが、軍事は太原雪斎である。
2人は建仁寺、妙心寺で修業した仲であった。
一説には徳川家康の教育係だったとも云われている。
家康のブレーンとして黒衣の宰相・金地院崇伝(臨済宗南禅寺派)が知られているが、外交、易を得意とした。

信長と禅僧

織田信長と言えば比叡山焼き討ちや、石山本願寺との戦いなど「仏敵信長」といわれるが、仏教その物を否定していた訳ではない。
天下布武のため寺院勢力の世俗的な特権排除と政教分離が目的であった。
以外にも信長にも禅僧との関わりがある。
信長が築いた安土城は中国の思想や当時の情勢が影響しているが、情報を提供したのは策彦周良(臨済宗天龍寺派)である。
また、「岐阜」という地名を信長に提案したのは沢彦宗恩(臨済宗妙心寺派)である。

武田信玄と禅僧

信長に敵対していた武田信玄の教育係もまた禅僧であった。
信玄は出家させ「信玄」という名前を授与したのが岐秀元伯(臨済宗東海派)である。
その後を引き継ぎ、信玄(1573年没)の葬儀を恵林寺で営んだのは快川紹喜(臨済宗妙心寺派)である。
織田信長の甲州征伐(1582年)で恵林寺で焼かれる時に「心頭滅却すれば火もまた涼し」の辞世を残したと伝えらえている。
岐秀と快川に師事したのが虎哉宗乙(臨済宗妙心寺派)であり、伊達政宗と終世、師弟の関係にあった。

上杉謙信と禅僧

上杉謙信は幼い頃、曹洞宗の林泉寺に預けられていた。
最初は天室光育、後に益翁宗謙に禅を学ぶ。

武将を育てるのが寺院の生業でもあった

安国寺恵瓊の様に武将となった禅僧もいるが、禅僧から多くの事を学んだ武将は多い。
つまり、武将の師となる禅僧を輩出する事が、禅僧教団の生き残り戦術であったといえる。
僧侶は仏教のみならず儒教、道教、易学、軍事技術までもを指南していたのだ。

一向宗とは?

「一向宗」という宗派が存在するが、彼らは朝倉氏、上杉謙信、織田信長と戦いを繰り返したが、一向宗は戦国大名と戦うだけではなく、実は「一向宗」という名前とも戦っていた。
一向宗という宗派名は鎌倉時代、浄土宗のそうであった一向俊聖が開いた宗派で、『無量寿経』の中にみられる「一向専念無量寿経」に由来している。
だが、こちらの一向宗は戦国の合戦とはあまり関係がない。

一向宗・石山本願寺

織田信長と対立した有名な一向宗は石山本願寺である。
現在の大阪市中央区にあった寺院で、鎌倉時代の初期に親鸞が開いた宗派である。
天文2年(1533)に本願寺教団の本山となり、一大勢力となっていく。
阿弥陀如来の現世における理想郷を掲げ、壮絶な戦いを繰り広げた。

一向宗→浄土真宗

実は教団自身が「一向宗」という名将を公式名称として用いる事はなく、親鸞亡き後に浄土真宗と名乗ったが、浄土宗(親鸞の師である法然が開いた教団)が「真の浄土宗」を意味する浄土真宗という名称を認めず、一向宗と呼んだのである。
しかし、本願寺中興の祖・蓮如(1499没)は「他宗派の者が一向宗というのは仕方がないが、浄土真宗の門徒が一向宗と名乗ってはいけない。名乗ったら破門する」と檄を飛ばした。
この結果、教団内部では浄土真宗、または真宗という名称が浸透していったが、門徒中心の一揆は「一向一揆」と呼ばれ、外部から「一向宗」という名称が消える事はなかった。
天正8年(1580)、石山本願寺、加賀の一向一揆も敗戦するが、教団自体は存続していく。

明治時代、「真宗」と認められる

江戸時代、教団は浄土真宗という名称を宗派名として請願した。
だが、徳川家康は三河一向一揆に苦しめられたこと、浄土宗を信仰していた事から、一向宗を公式名称とした。
西本願寺と東本願寺に分離した後も浄土真宗のみを公式名将に用いるように幕府に意見書を提出するが、論議されるものの認められる事なく、明治時代を迎える。
明治五年、明治政府は「真宗」を認可する。
これにより、「真宗」が公式名称となる。

戦後、「浄土真宗」と認められる

浄土真宗が正式名称となるのは第二次世界大戦後、国家の宗教統制がなくなってからの事である。
現在、西本願寺を中心とする教団が浄土真宗本願寺派である。
本願寺派以外は真宗○○派と名乗っている。

キリスト教の宗教戦争

キリスト教の布教を信長が認める

日本にキリスト教が伝来したのは1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによる布教が始まりである。
時の権力者・織田信長の庇護を受ける事に成功し、各地の戦国大名たちの領内での布教許可を求め布教の旅を続ける。

布教という名の侵略であった

「布教を許してもらえるならば、南蛮貿易をしましょう。鉄砲などの武器、弾薬を用意します。」
「仏教などの異教を撲滅する事は、神への奉仕です。神はその見返りに合戦での勝利をもたらすでしょう。」

布教の為に日本語教材を用意

一方、整理を分かりやすく説く為に「ドチリナ・キリシタン(どちりいな・きりしたん)」など制作している。
関ヶ原の合戦(1600年)頃に信者教育に用いられた教材である。
表現方法は弟子と私の問答形式になっている。

ドチリナ・キリシタン

「キリスト教の信者になる為にはどの様にしたら良いですか?」「デウスを信じる事です」
「デウスはどのような方なのですか?」「宇宙の創造主です」
「どの様な言葉を唱えるのですか?」「イン ナウミネ パチアリス エツ ヒイカリ(聖父と聖子と聖霊の御名に寄りて、アーメン)」

仏教を意識して、表現を変えた宣教師たち

浄土宗などの「阿弥陀如来を信じて『南無阿弥陀仏』と唱えなさい」と類似している。
また、キリスト教の「悪魔」を仏教語の「煩悩」に当てはめ、「天魔」「天狗」と表現したり、「救い」を「解脱」とし、「解脱とは、罪の束縛から解放され、神の子となる事である」などと、当時の仏教の布教方法、形態、仏教語を研究し、キリスト教の教理を日本人に分かりやすく説いている。

主なキリシタン大名

主なキリシタン大名には高山右近、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、小西行長などがいる。
大友宗麟の洗礼名は「フランシスコ」、細川珠(明智光秀の三女)は「ガラシャ」である。
黒田官兵衛がキリシタン大名であった事は、あまり知られていない。
晩年、秀吉との関係が微妙になるが、秀吉による天下統一がなされた後のバテレン追放令(1587年)も影響しているのではないかといわれている。

江戸時代から文明開化まで、キリスト教は禁止される

江戸時代になると禁教令(1613年)が出される。
最後まで抵抗した高山右近はマニラに追放、有馬晴信は死刑となり、キリシタン大名は消滅する。
九州からローマへ派遣された天正遣欧使節であった四人の少年たちも、帰国後に悲痛な運命を辿る事になる。
日本でキリスト教が認められるのは、明治維新後である。

庶民が信仰した宗教

戦国時代の庶民はどんな宗教を信仰したのか。彼らは、常に「神に見られている」と認識し生活や文化も神仏に深い関わりがあった。

庶民も宗教・神仏と深い関わり

庶民の生活や文化も、宗教・神仏と非常に深いかかわりがあった。ここでは、主として戦国時代の荘園・村に生きた人々の信仰をまとめる。

村(惣村)に生きた百姓・隷属民と呼ばれる人々

14世紀頃より畿内近国の荘園の内部から、土豪(侍身分の現地の有力者)や百姓・隷属民などを構成員とする自治組織としての村(惣村)が形成されはじめ、戦国時代には一層その流れが加速した。

惣村内に信仰施設が存在した

鎮守社が庶民の心の拠り所だった

村人にとってもっとも重要な信仰の場が、鎮守社(ちんじゅしゃ:土地の守護神を祀る神社)である。
荘園領主ゆかりの神社が勧請された場合もあれば、荘園成立以前から現地で信仰されてきた神社を鎮守社とする場合もあった。
鎮守社は重要な祭礼の場であり、村人たちの精神的より所であった。
そのため、集団が一致団結してことにあたる際に神前で行う儀式=一味神水(神へ想いを誓う儀式)もしばしば執り行われた。

神仏は常に自分たちを見ている、という認識

一味神水は、たんなる形式的なものではなかった。当時、神仏を介して約束を交わした場合、儀式が終わった後もなお「神に見られている」という認識があったからだ(島津義久書状など)。
もちろん、神仏から約束が反故にされるケースも多々あったはずだが、神仏の存在が深く信じられていた時代に「神に見られている」という認識は、特別な意味を持ったに違いない。

惣村内には氏寺・寺社・祠などが点在

村には鎮守社以外にも有力者の氏寺や、諸々の寺社・祠など多くの信仰対象があった。
また、特定の石・樹木・滝などの自然物、鹿・狼・蛇などの動物が信仰対象とされた。
信仰の場は村の外にも拓かれており、こぞって各地の霊場に参詣した(熊野詣など)。
逆に、各地を遍歴する宗教者が村に立ち寄ることもあった(山伏・高野聖など)。

一向一揆を支えたのも浄土真宗などの信仰だった

一向一揆の母体となった浄土真宗(本願寺派)も、戦国時代になると畿内・北陸をはじめ全国の村々に根を下ろした。
難しい修行をせずとも極楽往生ができることを示した浄土真宗は、各地の村々で大いに受け入れられた。
あの世での救済が約束されているという教えが、民衆たちに生きる勇気を与えたようだ。
しかし、一向一揆に際しては「進めば往生極楽、退けば無間地獄」という合言葉に転じたことも忘れてはならない。
一向一揆と衝突した日蓮宗も、各地の村々に波及した。このように、村人も多様な宗教・神仏に触れる機会があったのである。

関白・九条政基の日記に民衆の信仰が記録

和泉国日根荘の九条家荘園(大阪府泉佐野市)

かつて和泉国に日根荘という九条家の荘園があった(現大阪府泉佐野市の山間部周辺)。
ここに文亀元年(1501)から約4年間、九条家の当主で関白も務めた九条政基が下向している。
日根荘も他の荘園同様に、惣村の成長によって京都からの遠隔支配が困難になったため、現地に赴いたわけである。

田植えの豊作を神に祈る

収穫後には神への感謝の祭礼が執り行われる

政基が記した滞在日記が残されているので、そこに村人の信仰を垣間見ることができる。
村人の信仰は、その生業に結びついたものが目立つ。
田植え開始前の4月初旬、村人たちが鎮守社に集まり祭礼が行われた。
夜には猿楽が奉納されているが、これは神に芸能を楽しんでもらうことで農作業の無事と豊作を願ったのである。 これとセットになるのが収穫後の11月に催された祭礼であり、神仏への感謝がなされた。

旱魃が起これば雨乞いで神に祈る

田植えから収穫まで、無事に事が進めばよいが現実はそう上手くいかない。
政基がやってきた年の夏は旱魃で、雨が降らなかった。この時、雨を降らす試みとして雨乞いがなされたという。
この雨乞いの儀式には、神が宿るとされる滝つぼに、敢えて不浄な物(鹿の骨や頭など)を投げ入れる事で神を怒らせることで雨を降らせようとする儀式もあった。

敢えて神を怒らせる儀式、というのはよくあった

信仰する神を怒らせるのだから、非常に危険な行為ではある。
しかし、中世では切羽詰まった人々が神仏を脅し、無理やりご利益を得ようとする例が散見される。


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