後醍醐天皇

建武の新政を開始 後醍醐天皇

後醍醐天皇

打倒、鎌倉幕府

後醍醐天皇(1288〜1339年)は即位の3年後、後宇多上皇(ごうだじょうこう)より政務のすべてを委譲されて新政を開始する事になった。
早朝から夜中まで激務に励み政務をこなすが、あくまで優秀な人材を政務に重用するなどの柔軟な政治を行う、極めて優秀な天皇であった。
後醍醐天皇の時代、皇位の継承に対して鎌倉幕府が大きな影響力を持っており、この頃より後醍醐天皇が倒幕を志す切っ掛けとなったと云われる。
しかし、後醍醐天皇は倒幕に失敗してしまい1332年には隠岐へと配流となってしまう。

隠岐の島から脱出する、後醍醐天皇の執念

その後、隠岐を脱出した後醍醐天皇は伯耆(ほうき)の船上山(せんじょうさん)(現在の鳥取県東伯郡)に入城し新たに兵を募り、再び倒幕へと動き出した。
そして、足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)の活躍もあって、後醍醐天皇は倒幕に成功した(1333年、東勝寺合戦)。
この後、後醍醐天皇は京都に戻り「建武の新政(けんむのしんせい)」を開始する。

建武の新政は、武士の不満を買い失敗

建武の新政では、後醍醐天皇は自身の指令「綸旨(りんじ)」を絶対視する政治を開始した。独裁ともいえる後醍醐天皇の新政は、鎌倉幕府以来の習慣を全く無視したものであった為、多くの人々の反発を招く結果となってしまった。
そして、1336年に建武政府は瓦解する結果となった

足利尊氏の離反

後醍醐天皇の失敗は、後の室町幕府の征夷大将軍となる足利尊氏の離反を招く結果となってしまう。
尊氏は持明院統の光明天皇を擁立し、後醍醐天皇は吉野へと移った後の自身の正統性を主張したため、これにより南北朝の対立が始まってしまう。そして後醍醐天皇は京都へ帰る事が出来ぬまま、1339年に崩御した。
その後、南北朝の時代は1392年に足利義満(あしかがよしみつ)が両朝の統一を果たすまでのおよそ60年間も続く事となる。

隠岐脱出のエピソード

鎌倉幕府打倒に失敗して隠岐島に流された後醍醐天皇だったが、再興のために本土に戻る事を決意。
後醍醐天皇は漁船に乗って、隠岐を脱出するが、すぐに追手に見つかってしまう。
追手の兵船がみるみる迫って来るなか、船内は恐怖状態に陥ったという。
しかし、後醍醐天皇だけは少しも騒がず、船員たちに適切な指示を出していた。
そして、自身は悪臭を放つ積み荷のイカの中に身を潜め、見事に追手の者の目をくらましたという。
歴代の天皇の中で、イカと同衾した人物は後醍醐天皇一人だけであろう。



↑ページTOPへ