北条時宗

元寇に立ち向かう 北条時宗

北条時宗

若い執権が、家臣たちと元に対抗する

時宗が元のフビライ・ハンを関わる事となったのは1268年、時宗が18歳のときであった。フビライ・ハンからの国書を持った高麗の使節太宰府へと来訪し幕府へと届いたのだ。国書の内容は蒙古への服属を則すという、日本へは到底受け入れられない内容であった。
時宗はこの年、執権に就任する事となるが、執権になってまだ1年に満たない若者が家臣たちと共に、未曾有の国難を切り抜けなければならなかったのだ。
時宗は北条氏の嫡流である得宗家に権力を集中させることで、幕府内における意見を統一し、元からの圧力へ対応する。(※1272年に兄である北条時輔(ほうじょうときすけ)が謀反を疑われ殺害される。この事件を二月騒動という。)

1274年 元の初めの侵略、文永の役

幕府は元からの国書を侵略の先駆けとして、朝廷が用意した返書を拒否した上で、その後も元から届けられた国書への返答を行わなかった。
元からの国書を無視する事で、服属を拒否したのだ。
時宗は日本全体の国難を理由に、九州各地の所領を持つ御家人たちに国防の強化を命じ、元軍侵略へと備えた。
1274年に元軍の船団が九州北部の湾上に現れた(これを「文永の役(ぶんえいのえき)」という)。
元軍を迎え撃つ日本の武士たちは、日本の兵とは違う元軍の集団戦法や「てつはう」と呼ばれる火薬を用いた兵器に大変な苦戦を強いられる事となったが、元軍は「神風」といわれる暴風雨によって撤退する事となり、辛うじて日本軍は勝利する事が出来たのだった。

1281年 二度目の侵略 弘安の役

翌年の1275年、時宗は元からの使者を処刑し、元へ服属を拒んだ(この処刑は、あえて元への攻撃的な姿勢を示す事で、国内の緊張感を高める狙いもあったと思われる)。
さらに異国警固番役(いこくけいごばんやく)という国防の役職を新たに設け、元軍の二度目の進軍を押さえる為、博多湾の沿岸地域に大きな石塁を築く事で防衛体制を強化した。
そして、1281年に二度目の元軍侵略「弘安の役(こうあんのえき)」が起こった。
日本軍は前回の戦いとは違い、元軍の上陸を全く許すくとなく防衛に成功する。
さらに元軍はなんと二度目の「神風」により、またも撤退する事となり、見事、日本は勝利を収めた。

禅に深く帰依し、鎌倉に円覚寺を創建する。

弘安の役の翌年、1282年に時宗は、二度もの元寇による慰霊の為に無学祖元(むがくそげん)を開山に円覚寺を建立した。
そして、さらに三年後の1284年に時宗は34歳という若さで亡くなった。
時宗の跡をついで9代目執権となった北条貞時(ほうじょうさだとき)は、得宗専制政治を確立させた。

時宗の年表

西暦元号年齢 主な出来事
1251年 建長3年 1歳 甘縄の安達邸で生まれる、幼名は正寿
1257年 正嘉元年 7歳 将軍・宗尊親王の加冠え元服し、時宗と名乗る
1258年 正嘉2年 8歳 将軍・宗尊親王の参詣に供奉する
1260年 文応元年 10歳 小侍所別当に就任する
1261年 弘長元年 11歳安達義景の娘、覚山尼と結婚する
従五位下に叙し、左馬権頭に任官
1263年 弘長3年 13歳 若狭国税所今富名を拝領する
1264年 文永元年 14歳 連署に就任
1265年 文永2年 15歳 従五位上に昇叙
左馬権頭如元
但馬権守兼任
相模守兼任、但馬権守去る
1266年 文永3年 16歳 深秘の沙汰。自邸で政村、実時、安達泰盛と会合する
1268年 文永5年 18歳 左馬権頭辞任
執権に就任
1272年 文永9年 22歳二月騒動
1274年 文永11年 24歳文永の役
1281年 弘安4年 31歳弘安の役
1284年 弘安7年 歳34 死没


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