室町幕府の機構

室町幕府の機構

3代将軍足利義満によって南北朝が統一され、室町幕府の機構も完成した。
義満が地方支配強化の為に守護大名らを優遇したが、その守護大名に力を持たせすぎた幕府の機構が、後の政権運営に陰を落とした。
室町幕府の機構をみてみる。

多くの“機関”を設けた室町幕府

鎌倉幕府の崩壊後、南北に分裂してしまった朝廷だったが、南北朝廷から交互に天皇を即位させる事を条件に合一がなり、ようやく幕府の政権運営は安定した。
そして、室町幕府の政治機構は、3代将軍義満の頃になって、本格的に整備されていった。

室町幕府の機構

室町幕府の構造

将軍に次ぐ「管領」

先ず、足利家の執事を「管領」という役職に改めて将軍に次ぐ最高位とした。
次に管領が統轄した“中央諸機関”に、政所(財政や領地関係の訴訟を司る機関)や侍所(軍事・警察を司る機関)、評定衆(幕府の最高成務機関)、評定衆の補佐機関であった引付衆問注所(文書記録や管理担当機関)などがった。
管領は、足利一門の有力な守護(国単位で置かれた軍事的行政官)だった細川氏・斯波氏・畠山氏の3氏から交代で任命されていた。
侍所の所司(長官)は、赤松氏・一色氏・山名氏・京極氏の4氏から交代で任命されるのが慣例となった。
将軍の下には奉公衆といわれる直轄軍を編成した。

東国八ヶ国を管轄する「鎌倉府」

政権の中枢が京都に移った事で手薄になった東国8カ国を管轄する為「鎌倉府」が設置された。
※後に、伊豆と買いを加え10カ国に管轄地域が拡大した
鎌倉府の長官は鎌倉公方と呼ばれ、尊氏の子・基氏が任命されてからは、その子孫が代々世襲する事になった。
また、鎌倉公方を補佐する関東管領も、貞治2年(1363)からは上杉氏が世襲する事になった。

室町幕府は“反・後醍醐”の集まりだった

室町幕府は、倒幕を助けた助けた武士たちを後醍醐天皇が冷遇した事への「反動」で誕生した政権といっても過言ではない。
そのため室町幕府は、成立当初から、武士たちを優遇する事で政権の安定を図らざるを得なかった
足利家を助けた武士たちを冷遇すればどのような事態に陥るか、痛いほど理解していたのだ。

守護大名とは?

守護が持った“新たな権限”とは

最初期の室町幕府は、地方支配を確固たるものにする為、全国各地に守護を派遣し、その権限を拡大させた。
鎌倉幕府における守護は、軍事・警察権を保持していただけだったが、室町幕府は、守護に多くの新しい権限を与えた。

年貢の半分を徴収する「半済令」

守護が持った“権限”のなかでも特に重要なのが、守護に一国内の荘園(私有地)・公領(公有地)の年貢の半分を徴収する権利を認めた「半済令」であった。
これにより守護は、荘園と公領への支配を強め、もはや中央から派遣された単なる行政官としてではなく、一国全体を支配する領主的な存在へと変貌を遂げたのである。
この室町幕府における“守護”を、鎌倉時代の“守護”と区別して「守護大名」と呼んでいるわけだ。

後に幕府が守護を統制できなくなる

幕府が守護大名に強大な権力を与えた事は、室町幕府のその後の政権運営に大きな影を落とした。
幕府は、有力守護大名の協力なしに政権を維持できなくなっていくのである。
後の応仁の乱などは、この守護大名らを幕府が統制できなくなった事によって起こった大乱なのだ。

室町幕府の絶頂期

幕府が朝廷から多くの権限を奪う

3代将軍足利義満は、永和4年(1378)に京の室町に壮麗な邸宅(花の御所)を造営し、そこで政治を行った。
義満は、それまで朝廷が握っていた商業都市・京の支配権を順次取り上げていくとともに、京に住む人々の生活と、商人の経済活動が安定するよう努めている。
幕府は諸国に段銭(臨時支出のため田に課す税)を賦課する権限や、諸外国と外交を行う権限を朝廷から取り上げるなどして、着々と政権基盤を盤石なものにしていった。

足利将軍の御所「花の御所」

足利将軍の御所「花の御所」
上杉本『洛中洛外図屏風』に描かれた足利将軍の御所

義満が有力守護らの統制を行う

また、強大な将軍となる事を目指していた義満は、政権運営の邪魔になる有力守護大名たちの統制にも乗り出した。
明徳元年(1390)、土岐康行を討伐(土岐氏の乱)、続いて翌明徳2年(1391)には山陰の山名氏を倒した(明徳の乱)。
山名氏は11国を支配する守護で「六分の一殿」と呼ばれていたが、わずか3国の守護に転落した。
また、交易により莫大な利益を上げていた周防の大内義弘も謀略によって滅ぼした(応永の乱)。

日本国王・足利義満

応永元年(1394)、義満は将軍職を嫡男・義持に譲り、従一位太政大臣に上り詰めた。
これによって貴族諸家への実権も掌握した義満は、名実ともに日本の「支配者」となり、応永9年(1402)には、明から日本国王に奉ぜられるまでになった。

足利義満

足利義満


↑ページTOPへ