得宗専制

執権政治から得宗専制へ

執権・北条氏が実権を握った執権政治の時代から、やがて鎌倉幕府は得宗専制へと移っていく。
「得宗」とは北条氏嫡流の当主をさし、北条義時の法名を徳宗といったのに由来するが、得宗専制とは簡単にいうと「北条氏の独裁」であった。
北条氏の反対勢力を排除し、有力御家人・三浦一族をも滅ぼして北条一族の一強体制を作った。

源頼朝の血筋が絶たれ、正統性を失った鎌倉幕府

摂家から将軍が迎えられる(摂家将軍)

源頼朝頼家実朝の源氏将軍の血筋が絶たれたことで、鎌倉の長となるべき存在を失った鎌倉幕府の首脳陣。
そこで幕府は、頼朝の姪を母とする九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉に迎えた。
このとき三寅は数え二歳で、後見として北条政子(平政子)が就いた。
政子が尼将軍と呼ばれる所以である。

承久の乱に勝利、北条幕府が正統性を得る

北条氏と朝廷の対立

鎌倉幕府の変容と北条氏の権力拡大をよく思わなかったのが京の後鳥羽上皇だった。

幕府軍が朝廷軍を破る

承久3年(1221)、後鳥羽は打倒北条義時を掲げて北面・西面の武士らに号令をかける。承久の乱の勃発である。
鎌倉時代前期における最大の危機だったが、義時の命を受けた息子の泰時率いる鎌倉御家人はこれを打ち破り、後鳥羽上皇とその皇子たちを配流にした。

鎌倉幕府が西国までの支配力を得た

この乱で幕府は西国の武士から没収した土地を恩賞として分配し、東国の武士が西国に拡大する契機の一つとなった。
また幕府は出先機関として京に六波羅探題を設置し、北条一族の者を派遣、幕府の支配が西国にも及んだ。

北条泰時が御成敗式目を制定

義時や政子の没後、幕府の構造に変化があらわれる

この頃、北条義時、政子、そして三浦義村ら草創期を支えた人々があいついで世を去り、鎌倉幕府の首脳陣は新しい世代へ交代していた。

泰時が武家法典を制定したことで、北条専制の流れに

父・義時の後を継いで執権となった北条泰時は、先例や慣習などを成文化した武家法典、いわゆる御成敗式目を制定した。
「道理」を軸とし、寛喜2年(1230)から翌年にかけて起こった飢饉に対する徳政の側面も持つとされるこの法典の根底には、在京時代に交流を持った僧侶・明恵の「阿留辺畿夜宇和」の精神が影響を与えているともいわれる。
為政者としての責任感に目覚めた武士の姿がうかがえる。

泰時以降、得宗政治の時代へ

五代執権・北条時頼

五代執権・北条時頼は中〜後期の鎌倉幕府を特徴づける得宗政治を語る上で欠かせない人物である。

三寅(四代将軍・頼経)を鎌倉から追放

四代執権・北条経時の急逝により若くして執権に就任した時頼は、元・四代将軍で出家後も「大殿」として大きな影響力を持っていた九条頼経を京都に送還する(宮騒動)。

得宗専制、親王しか将軍にさせなかった北条幕府

頼経の息子で五代将軍の頼嗣もほどなく京都に送り返され、これ以降の将軍は京都から親王を迎えては交替させるのが通例となった。

独裁色が強くなると『吾妻鏡(正史)』の記述が止まる

なお、鎌倉幕府の公的記録として基本史料とされる『吾妻鏡』は六代将軍・宗尊親王が京都に送還される記事で終わっている。
『吾妻鏡』を編纂したのは北条氏であるため、北条氏にとって都合が悪いことは意図的に削除されたりもしている。

得宗専制の時代へ

一門の反対勢力を排除し、長く協調路線をとってきた有力御家人・三浦一族をも滅ぼして北条一族の一強体制を作った北条時頼は、出家して執権の座を一族に譲った。
しかし、これ以降も時頼は得宗、すなわち一族の嫡流として幕府内での影響力を保ち続けた。

元寇、モンゴル帝国の襲来

北条時宗の時代に元との対立が起こる

時頼の子・北条時宗の時代、日本を揺るがす最大の危機、元寇が訪れた。

専制のおかげで戦の準備ははかどった

東アジアに侵攻し、拡大を続けるモンゴル帝国(蒙古)の手がついに日本にも伸びてきたことに危機感を覚えた鎌倉幕府は異国警固番役を定め、非御家人である本所一円地の住人も動員する体制を整えて防備にあたった。

元寇そのものは無事に乗り越えたが…

モンゴル軍は二度にわたり日本本土に上陸したが、そのたびに鎌倉幕府に退けられた。
折しも暴風雨に見舞われて大きな損害を被ったモンゴル軍は、三度目の侵攻を計画しつつ実現はしなかった。
しかし、幕府は警戒を解かず、臨戦態勢を維持し続ける。

乱後も、恩賞を与えられず御家人が窮乏

戦乱の規模が大きすぎて、乱後の恩賞がだせず

この元寇を契機として鎌倉幕府は日本全国に号令する立場になったが、それは本来支えるべき御家人以外の者たち、すなわち本所一円地の住人や、宗教的な戦闘行為として祈祷を行った寺社にも恩賞を与える義務を負ったことを意味していた。
手に余る務めを背負い込んだ幕府は疲弊していく。

御家人の所領は縮小、土地を手放す者もあらわれる

またこの頃、御家人の所領は分割相続の繰り返しによって縮小の一途を辿っていた。
一方で恩賞として新たな領地を獲得する見込みはなく、困窮した御家人の中には所領を手放さざるを得ない者が現れ深刻な問題になっていた。

得宗専制のもと御内人が台頭する

霜月騒動、またも北条の側近が討たれる

父・時宗の後を継いで得宗の座に就いた13歳の北条貞時を外戚として支える安達泰盛は、恩賞の分配を司る御恩奉行の立場からこの問題に向き合った。
質素倹約の励行、本所一円地の御家人化、裁判の迅速化を進める彼の改革には、将軍権威の昂揚や、得宗被官(御内人)らを撃肘する意図があったともされるが、得宗被官の平頼綱に代表される反対派御家人らにより泰盛は志半ばにして斃れる(霜月騒動)。

平禅門の乱、またも北条が側近を討つ

得宗専制を推し進める北条貞時は、平頼綱の専横を許さずこれを討ち、幕府首脳陣の再編成を図った。

永仁の徳政令、御家人はさらに苦しくなる

また、御家人救済を目指して永仁の徳政令を発布したが、土地の売却や質入れを禁止された御家人はかえって困窮する結果になってしまった。

御内人の台頭、やがて鎌倉幕府は滅亡へ

貞時はやがて政務への意欲を失い、次に台頭したのは内管領・長崎円喜ら御内人である。
幕府の実権を握った円喜の専横を止められる者はもはやおらず、父の死後に得宗となった北条高時も務めを放棄して田楽と闘犬にうつつを抜かすありさまであった。
やがて鎌倉幕府も滅亡し、高時も自刃することとなる。


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