後鳥羽上皇

承久の乱で幕府と戦った 後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

四歳で、天皇の地位を継ぐ

後鳥羽上皇は高倉天皇の第四皇子であり、後白河法皇の孫にあたる。安徳天皇の異母弟でもある。
以仁王(もちひとおう)が平治追討のために挙兵した治承4年(1180)に誕生した。
寿永2年(1183)、源氏との戦いに劣勢に追い越られた平氏が安徳天皇を連れて、都落ちすした。
このとき、後白河法皇は安徳天皇を帰りを待つべきか、新しく天皇を即位させるか、選択を迫られていた。
結果、まだ四歳であった後鳥羽が践祚(せんそ)する事になる。

神器なき即位

平氏が都から撤退するときに、三種の神器を持ち去ってしまっていた。
このため後鳥羽は、神器を用いずに、法皇の院宣のみで践祚・即位する事となったのだ。
神器なき即位」といわれ、この事が後鳥羽の生涯にわたる負い目となってしまう。
なお、安徳天皇が在位しているときに即位した為、2年間在位期間が重複している。
※平氏滅亡後、八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は返ってきたが、草薙剣(くさなぎのつるぎ)は見つからなかった

長期間、院政を執る

法皇の没後、後鳥羽は親政を執ったが、政務は九条兼実、土御門道親(とちみかどみちちか)が掌握していた。
その後、兼実は源頼朝へと接近した事を半武家勢力に憎まれ失脚する。
そして後鳥羽は在位15年、19最で退位して上皇となった。
権威をふるっていた道親がほどなく亡くなった事もあり、専制君主としての色合いを強めていく。
以後、土御門、順徳、中恭の3代23年間の長期にわたり院政を敷いたのであった。

幕府に敗れ、配流となる

朝廷の権力を回復させる大方針からついに倒幕を狙ったが、承久の乱に敗れてしまい、出家して隠岐へと配流された。
法名は金剛理、あるいは良然(りょうねん)であった。
以後、亡くなるまでの19年間、隠岐での生活を余儀なくされた。
摂政の九条道家らが盛んに幕府へ還京運動を働きかけたが、受け入れられなかった。
当地で呼んだ御製(ぎょせい)に「軒は荒れて 誰かみなせの宿の月 過ぎにしままの色や寂しき」と、切実な望郷の念を綴ったものがある。



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