北条泰時

御成敗式目を制定し、執権体制を確立 北条泰時

民を思いやる鎌倉の名君

北条泰時(ほうじょうやすとき:1183〜1242年)は初代六波羅探題鎌倉3代執権、源頼朝の妻である北条政子の甥である。
承久の乱(1221年)において総大将として活躍し、見事に幕府軍を勝利へと導いた。
泰時は民を思いやる名君で知られている。
例えば、 1231年の「寛喜の大飢饉(かんぎのだいききん)」では飢えに苦しむ人々を助けるために米を放出するなどの善政を行った。
こういった撫民政治が仁成として後世に受け継がれている。
泰時は承久の乱で総大将として勝利を収めた後、そのまま初代六波羅探題となって京都に居座り戦後処理にあたったが、1224年に父の北条義時の死後、鎌倉幕府の執権として就任する。

会議による集団的な指導体制確立を目指ず

源頼朝の死から26年の1225年、北条政子と頼朝の側近である大江広元気(おおえのひろもと)が亡くなってまう。この時、泰時は幕政の刷新に着手する。
大倉に置かれていた幕府を若宮大路に近い宇都宮辻子に移転する。
さらに執権の独裁制・権力を弱め、会議による集団的な指導体制確立を目指した。
まず執権の補佐役である連署を新設し叔父の時房をその地位に付かせた。
次に評定衆(ひょうじゅうしゅう)を設置する事で会議制へと移行した。
評定衆には中原師員(なかはらもろかず)や三浦義村(みうらよしむら)といった有力御家人ら11人を任命した。
執権、連署、評定衆の計13人で幕府の最高決済会議でである評定を行うという体制であった。
これにより、沢山の人で意見を出し合いながら政治が行えるようになったのである。

武家社会の基本法典、御成敗式目を制定

承久の乱後、鎌倉幕府の管轄・支配領域は西国まで及ぶこととなり、その結果、所領をめぐる紛争が各地で頻発する事となった。
幕府としては公平な裁判を行う必要があるため、その基準を示す必要性が生じる。
これまでは裁定は朝廷の管轄であった為、これまでの武家社会の習慣法では対応する事が不可能であった。
泰時は「律令制度」に裁判基準の可能性を見出した為、その研究・考察を行った結果、1232年に御成敗式目が完成した。

御成敗式目とは

御成敗式目とは、鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに、制定された武士政権のための法令(式目)のことである。
貞永元年に制定された為、貞永式目とも呼ばれる。※ただし、貞永式目という名称は後世になって付けられた呼称であり、御成敗式目と称する方が正式である。
また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。

公平な裁判を行うために制定

鎌倉幕府の基本法典、裁判基準

「御成敗式目」鎌倉幕府の基本法典ともされ、裁判基準となった。
泰時が弟の六波羅探題・北条重時に送った書状の一つにも、本所などが地頭(御家人)を訴える「本所・御家人訴訟」が六波羅探題に集中しており、立場の強弱にかかわらず公平な裁判を行うべきことや、そのための基準となる法規が必要であることが示されている。

幕府が御家人を統制するための式目

元来、鎌倉幕府は成立直後から「本所・御家人訴訟」について、概本所側を勝訴とする判決を下していた。
これは、鎌倉幕府が第三者として「本所・御家人訴訟」を裁定するのではなく、従者である御家人を規律するという側面を重視していた(本所から期待されていた)ことを明瞭に示している。

承久の乱の後、武士のあいだで紛争が頻発した

承久の乱で勝利したのち、西国に新たに設置された地頭と本所とのあいだで紛争が頻発するようになる。
六波羅探題は戦後の治安回復のために成立したが、このような状況のなかで、徐々に紛争解決の一翼を担うようになった。
その結果、冒頭で述べたように、六波羅探題に訴訟が集中するようになり、裁判基準となる成文法の制定が求められるようになったのである。

公家の領域を侵さず、武家の自立性を主唱

御成敗式目は、公家には干渉させず

そして、この「御成敗式目」の法的性格について、泰時が重時に送った別の書状に「これによりて京都の御沙汰、律令のおきて聊かも改まるべきにあらず」とあり、「御成敗式目」が律令をはじめとする公家法の領域を侵さないことを掲げている。
いわゆる「法圏の分立」を示しており、泰時による式目制定の意図が、重時を通じて朝廷へ伝達されたと考えられている。

朝廷と幕府は住み分けた

泰時が朝廷に「公家法の領域は侵さない」と配慮したのは、すでに存在する律令などの規定と御成敗式目の規定が相違・矛盾した際に、その批判を回避するためと見られている。
また、そのような批判に対抗する一つの方法として、「右大将家」、すなわち源頼朝やその時代に定められた規範が創出された。
これは、政治的には北条氏による幕府運営を正当化するものであったが、御成敗式目のなかに盛り込むことによって、裁判基準としての性格を確保しつつ、御成敗式目などの武家法の自立性をも主張しようとしたとみられる。

北条泰時

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