鎌倉幕府の荘園

鎌倉幕府の荘園

守護と地頭の設置で幕府の支配域が拡大

頼朝が全国の荘園に干渉する力を得る

源頼朝が設置した国地頭は、西国の武士を御家人(頼朝と主従関係を結んだ武士)に組織する布石になった。
その後、国地頭の権限は縮小され、国の御家人を統括し、殺人や謀反などの重罪を取り締まる守護に置き換えられた。
将軍の家人である御家人になるには、国衙の在庁官人や郡司・郷司、荘園の荘官である必要があった。
頼朝は各国に使者を派遣し、所職を持つ在地領主から御家人が選任された。

源頼朝が征夷大将軍に

1189年(文治5年)、奥州に逃れていた源義経が藤原泰衡に討たれた。
頼朝は泰衡が許可なく義経を討ったことを責め、大軍を動員して滅ぼした。
このとき、頼朝は朝廷の許可を得ることなく出陣したが、これ以後の武家による軍事動員の先例になった。
1192年(建久3年)、頼朝は征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府が確立された。

在地領主が御家人に

御家人となった在地領主は地頭に任じられ、所領の支配を承認された(本領安堵)。
それまでの在地領主は、都にいた荘園領主や知行国主などの上位領主に従い、時には不当な扱いを受けることもあった。
それでも従ったのは、上位領主が荘官や郡郷司などの任免権を握っていたからだった。

荘園の支配権が幕府に移っていく

しかし、地頭職の任免権を鎌倉幕府が握ったことで、御家人は荘園領主や知行国主から解任されることがなくなった。
地頭職を持たない御家人も、莊園領主や知行国主から不当な扱いを受ければ幕府に訴え出ることができた。
そのため、荘園では本家や領家の荘官に対する支配権が弱まっていった

荘園から公権力の影響力が消えていく

院政から平氏政権の時代に領域型荘園が数多く設立されたが、公権力の支配領域である公領も半分近くの比率で存在した。
中世の国衙は知行国制の下にあり、院や摂関家の息がかかった者が統括していた。
また、鎌倉幕府が成立すると、荘園の所職(下司、公文など)と公領の所職(郡司、郷司など)が区別することなく地頭職として給与されたので、荘園の所職と公領の所職の区別がなくなっていった。

鎌倉幕府による荘園制度の安定化

幕府が地頭にしっかり管理させる

前より良くなったね、と言われるように

鎌倉幕府は荘園の体制を大きく変えたが、必ずしも荘園制を壊したわけではなく、逆に荘園制を安定化させた側面もあった。
幕府が任命した地頭には、荘園の管理や治安維持、年貢の納入などの職務があった。
これらを滞りなく遂行することが鎌倉幕府の権力の正統性につながったので、怠ける地頭は処罰の対象になった。
実際、領家に対する年貢の未進を繰り返し、幕府から解任された地頭もいたという。

従来の荘園に対する不満

また、院政期から平氏政権にかけての領域型荘園の設立では、それまでの権益を奪われた“負け組”の領主も大量発生させた。
地方社会には彼らの嫉妬や怨念が渦巻き、源平争乱の一端となった。
争乱を収めた鎌倉幕府は統一された武力装置を構築し、御家人間の所領をめぐる争いの解決に尽力した。

頼朝の血筋が途絶え、藤原氏が将軍に

頼朝は朝廷との融和路線を歩み、1199年(正治元年)に没した。
没後は頼朝の子が将軍職を継いだが、2代頼家、3代実朝がいずれも若くして亡くなり、源氏の嫡流が途絶える。
そのため、幕府は後鳥羽上皇の皇子を次の将軍に迎えようとしたが、上皇はこれを拒否。
こうしたことから、幕府は摂関家から、頼朝の遠縁にあたる2歳の三寅(後の藤原頼経)を4代将軍に迎えた。

承久の乱

後鳥羽上皇は後白河上皇の孫で、分散していた天皇家領を手中にして経済基盤を高めた。
これを財源にして畿内や近国の武士を西面の武士として仕えさせ、幕府に負けない軍事力を身につけた。
そして1221(承久3年)、後鳥羽上皇は幕府の実権を握る2代執権北条義時を討つための兵を挙げた。
だが幕府軍の返り討ちに遭い、朝廷軍は壊滅する。

朝廷が急速に影響力を失う

争乱の中心人物だった後鳥羽上皇は隠岐に流され、鎌倉幕府の朝廷に対する優位性が確立された。
上皇方に加わった武士の所職が没収され、幕府方の武士に恩賞として与えられることになった。
畿内や西国に地頭職を与えられた東国武士は一族で移住し、西遷御家人と呼ばれた。
戦国大名の毛利氏は、西遷御家人として安芸国吉田荘(広島県)に下向した一族である。


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