院政の始まり

上皇が権力を握る院政

院政の始まりと藤原氏の没落

藤原道長の子・頼道の娘には天皇となる男子が生まれず権力は退位した天皇である「上皇」の手に移った。
これにより、長らく摂関政治で権力を握り続けてた藤原氏の時代が終焉を迎える。
そして、上皇との関係を利用する事で、平氏が台頭してくる事になり、さらには武士の時代へと変わっていく。

天皇との血縁を武器に、自由な政治を展開した上皇

院政とは、天皇が譲位して「上皇」となり、さらに上皇が出家して「法皇」となって、天皇を影から動かす事で、実質的に国を統治していた政治形態の事だ。
現代でも「院政を敷く」という言葉は、会社や組織などで現職を引退した実力者が、引退後も実権を握っている状態を指して使われる。

後三条天皇の親政

院政の礎を築いたのは第71代 後三条天皇である。
後三条天皇は藤原氏を外戚としなかった為、摂政・関白を置かずに自ら政治を執る「親政」を開始する。
公領を圧迫していた荘園の整理を断行した。
しかし、後三条は、わずか4年の在位で白河天皇に譲位し、その翌年に崩御した。

白河上皇の院政

白河天皇は14年間在位した後に幼少の堀川天皇に譲位し、自らは上皇となって院政を開始する。
白河上皇も、やはり摂関政治は行わず、その権力を奪い、武士出身の近臣を用いるなどして、専制的な政治を行った。
1096年に出家し、法皇となった白河法皇は、堀川天皇が成人してからも政権を返すことなく、孫の鳥羽天皇、さらにその子の崇徳天皇と、3代にわたって幼主を擁し、43年間も院政を行った。
その後、鳥羽上皇後白河上皇と、院政は100年に渡って続いた。
なお、この院政が行われた期間に、皇位をめぐって朝廷では内部分裂が起こっており、崇徳上皇と後白河天皇による保元の乱が勃発する事になる。

院政の始まりとともに、伊勢平氏が台頭

上皇(院庁)の権力は、「北面の武士」と称する親衛隊を有していた事にも関係する。
当時、無理な要求を掲げて入洛する大寺院の僧兵を平然と討つ武士は、貴族にとって脅威の存在であった。
北面の武士の構成は、主として近畿周辺の在地武士などで、平正盛(たいらのまさもり)・忠盛(ただもり)親子も属していた。
この事が、のちの伊勢平氏台頭のきっかけとなったのだ。

時代は武力を求めていた

院政の経済的な基盤となったのは、院が一国の収益を握る「院分国の制度」や、院に寄進された莫大な量の荘園である。
同じく荘園を経済基盤とした大寺院の僧兵に対抗する為にも、武士の存在は重要になっていき、次第に中央政界での存在感を増していく事になる。

なぜ、上皇は北面の武士という「武力」を有していたのか?

専制君主だった白河法皇にも、意のままにならないものが3つあったという。
「源平盛哀記」によると、「加茂川の水、双六の賽、山法師」だったという。
当時都を流れる加茂川(鴨川)はたびたび洪水を起こしていた。
サイコロの目が思うようにいかないのは、今も昔も変わらない。
山法師というのは、比叡山延暦の僧兵の事である。

僧兵たちの強訴

彼らは、何か気に入らない事があると、山の麓にある日吉大社の御輿を担ぎ出し、神仏罰が下ると脅して、無理を通そうとした。
これを強訴と呼ぶ。

北面の武士の誕生

延暦寺に限らず、園城寺、興福寺、東大寺などの大きな寺院では数千人の僧兵を養っていた。
寺の防衛にあたる僧兵たちは、しばしば都へ押しかけ朝廷に強訴したり、国司と争ったりした。
このような中で、僧兵らの無法に対抗する為には、院も武力を持つ事が必要になり、「北面の武士」が生まれたのである。


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