平氏政権

平氏政権の栄華と凋落

平氏にあらざるは人にあらず

平治の乱に勝利した平清盛は、武士として初めて太政大臣に就任する。
重要な官職を一門で独占し、平家の勢力は全盛期を迎えた。
しかし、この平家による専制政治が、朝廷や、各地の武士たちの反感を買う事になってしまう。
権力を一手に収め、栄華を極めた事で、平家一門は自惚れてしまっていた。
そして、清盛と長男・重盛の死を契機に、平家は急速に凋落していく事になる。

清盛が太政大臣となる

平治の乱の翌年、1160年、平清盛は正三位(しょうさんみ)となり、参議に任じられた。
武士として初めて、公卿と呼ばれる上級貴族の仲間入りを果たしたのである。
清盛はこの後も、さらに昇進を重ね、僅か7年後の1667年に最高位である「太政大臣(だいじょうだいじん・だじょうだいじん)」に上り詰めた。

孫を天皇に即位させる

こうした異例のスピード出世には、院・貴族といたずらに事を構えない政治手腕や、白河法皇の落胤という噂も預かったとされる。
1171年には、娘の徳子(とくこ)を入内(じゅだい)させ高倉天皇(たかくら)の中宮とし、徳子が生んだを3歳で安徳天皇(あんとく)として即位させ、「天皇の外戚」という立場を手に入れた。
位人臣(くらいじんしん)を極めた清盛は、平氏一門を高位高官にとりたてる。
一門の知行国は30を超え、所有する荘園は50ヵ所以上に上ったという。

日宋貿易で莫大を富を得る

清盛は、現在の兵庫県神戸市兵庫区に大輪田泊(おおわだのとまり)という港を整備しており、当時の中国の王朝であった宋と、日宋貿易を行った。
貿易を通じて、大陸から先進文化を多く国内に取り入れ、さらに貿易による富を平家で独占する事で、莫大な経済力を得る事に成功した。
厳島神社の造営、宋銭を流通させる事で、貨幣経済の促進を促すなど、清盛の功績は非常に大きい。
「平家物語」によると、清盛の義弟・大納言 平時忠(ときただ)は「この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」と高言したという。

日宋貿易の交通路『山川 詳説日本史図録』より引用

日宋貿易の交通路
平忠盛(清盛の父)は、鳥羽院領の肥前国神埼荘の倉敷地のあった博多で日宋貿易を開始した。その際、対外交渉を統轄する大宰府が、越権行為として批判したが、忠盛は院宣をもってこれを抑えた。子の清盛は、安芸守・播磨守・大宰大弐を歴任し、瀬戸内航路の確保や大宰府の対外交渉権の接収を経て、修築した摂津大輪田泊まで宋船を通航させ、日宋貿易を拡大した。大量に輸入された宋銭は、日本経済に大きな影響を与えた。(『山川 詳説日本史図録』より引用)

後白河法皇と平清盛の対立

絶頂を迎えた平氏一門だったが、そのあまりの隆盛ぶりに貴族や武士の中には不満を持つ者が多くいた。
その人々の中心となったのが、大天狗と称される後白河法皇である。

鹿ケ谷の陰謀

1177年、「鹿ケ谷の陰謀」事件が起こった。
後白河の側近たちが京都・東山鹿ケ谷の山荘に集まり、平氏を倒す陰謀を企てたという。
首謀者数名は斬首、流罪となったが、後白河自身は不問に付された。

後白河法皇の幽閉

後に源頼朝から「日本国第一の大天狗」と称された後白河法皇は、その後も平氏政権を転覆させようと図った為、1179年、怒った清盛は後白河を鳥羽殿に幽閉してしまう。
こうして、平氏に対する反発は段々と強まっていく。
権力を手中に収め、奢る平家の凋落は間近に迫っていた。

清盛の誤算、長男・重盛の死

平重盛

平清盛の長男・重盛(しげもり)は、喜怒哀楽の激しい清盛とは対照的に、温和で沈着、文武両道の武人だったという。
「鹿ケ谷の陰謀」事件の際には、怒って後白河法皇を幽閉しようとする清盛を諌止した。
平氏一門の中で、清盛に諫言できる数少ない存在だったのだ。

父子が亡くなるとともに滅んだ平家

1177年には内大臣に昇進しており、「清盛が死んでも、重盛がいれば平氏は安泰」と大いに期待された重盛であったが、父に先立って43歳で病死してしまう。
跡を継いだ三男の宗盛は、老獪な後白河法皇に翻弄され続け、栄華を誇った平氏は清盛が亡くなった1181年から僅か4年後の1185年に滅亡してしまった。


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