薩長同盟

薩長同盟

土佐藩浪士の坂本龍馬と中岡慎太郎の尽力で遂に薩長両藩の同盟が成立する。
これにより、時勢は「攘夷」から「倒幕」へと大きく動き出した。
同盟成立によって、それまで敵対関係にあった薩摩と長州は、武力倒幕へと進んでいく。

西郷・桂首脳会談で薩長同盟成立

勝海舟の新政権樹立構想

第一次長州征討が長州藩の謝罪降伏で終結した裏には、幕府参謀の薩摩藩士西郷隆盛の配慮があった。
征討に先立ち西郷は、幕臣勝海舟と会談。
その際、公武合体の限界と、雄藩連合による新政権樹立の実現を説得される。
一時は長州藩撃滅を決意した西郷だったが、勝の意見に従い、長州藩の温存を図ったのである。

薩長同盟成立

八月十八日の政変以来、宿敵となった薩長両藩の連合を実現に導いたのは、土佐藩浪士の坂本龍馬と中岡慎太郎であった。
1865年4月、長州藩の武器密輸を理由に、再び幕府が征長の途についたとの知らせが届くと、坂本と中岡は、両藩の和解工作を開始する。
その必死の説得が功を奉し、翌年1月、遂に長州藩・桂小五郎(のちの木戸孝允)と薩摩藩・西郷隆盛の会談が実現した。
両藩は軍事同盟を締結して、反幕府の立場を鮮明にしたのである。

高杉晋作らが幕府軍を破る

薩長同盟により長州は軍備増強

薩長同盟では、再び幕長戦争が勃発したときには薩摩藩は参戦しない事、長州藩が必要とする軍事物資は薩摩藩名義で外国から輸入する事、などが明記された。
これによって、長州藩は軍備増強を図ることが出来たのだ。

長州軍が幕府軍を破る

1866年6月、幕府軍が芸州口、大島口、石州口、小倉口の四方から長州攻撃を開始、第二次長州征討の戦端が開かれた。
石州口では大村益次郎率いる長州軍は浜田藩領に侵攻し浜田城を奪取、小倉口では高杉晋作率いる奇兵隊は小倉に上陸し、幕府軍を撃退している。
芸州口では幕府軍主力が配されたが、長州軍の奮戦で戦線は膠着、大島口では大島を幕府側に占領されるが、高杉らの奮戦で奪還を果たしている。
そして高杉・大村らの活躍で長州軍は勝利を重ねる。
長州軍が最新式の銃を構え、洋式銃陣を敷いたのに対し、幕府軍は戦国以来の火縄銃による集団戦術を執った為、幕府軍は圧倒されたのだ。
また、長州軍が四国連合艦隊(英・仏・米・蘭の四か国)との戦いを経験していたのに対し、幕府軍に実戦の経験がなかった事も理由の一つである。

長州の勝利で休戦

7月、将軍家茂が急死したのを機に薩摩藩から征長中止が建白される。
朝廷内にも中止を求める声が高まり、8月、勅命により休戦が成立した。


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