西郷隆盛

西郷隆盛

雄藩連合で倒幕を進めた西郷隆盛

西郷隆盛(1827〜1877)は島津斉彬に抜擢され、将軍継嗣問題から倒幕まで、薩摩藩の対外工作を担当した。
長州藩、土佐藩、安芸藩との同盟に成功し西国雄藩による倒幕包囲網を形成し、幕府を追い詰めた。
明治維新後、士族の不満から西南戦争が起きると、同乗して行動を共にし、戦死する。

西郷隆盛

西郷隆盛 (エドアルド・キヨッソーネ作の版画)
西郷の親戚を参考に想像で描写された

幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。
西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。
次弟は戊辰戦争で戦死した西郷吉二郎、三弟は明治政府の重鎮西郷従道、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛。

薩摩藩の権力伸長を戦略的にサポート

西郷は下級武士であったが、薩摩藩主の島津斉彬に才能を見出された事を切っ掛けに、薩摩藩の倒幕運動を主導した。
斉彬の急死によって、一時西郷は失脚するが、後に復帰する。
主に幕府、朝廷や諸藩への政治工作を担当した。
当初は一橋慶喜(徳川慶喜)の将軍擁立に向け運動を行ったが、政局が複雑化するに至って、西郷の役割も多岐にわたった。

状況に応じて出方を変える戦略家

西郷の活動は、薩摩藩の権力伸長を一番の目的としていた。
第一次長州征討では、公武合体を推進させ、急進派の長州藩を押えた方が薩摩藩に有利だった為、幕府の強攻策に同調した。
しかし、第二次長州征討では、長州藩との融和策が薩摩藩に有利とみて、坂本龍馬が進める薩長同盟に同調している。

雄藩をまとめ倒幕戦線を構築

藩を何より優先する西郷の姿勢は、維新後に盟友である大久保利通との間に軋轢を生む事になる。
しかし、幕末当時は、同じ目的に向かい、軍事と諸藩工作の西郷、朝廷工作の大久保という役割で、活動が進められた。
1867年以降は、幕府の権力弱体化をみて、積極的な倒幕に藩論をまとめ、土佐藩、安芸藩(広島藩)とも提携し、倒幕戦線を構築した。

戊辰戦争に勝利し、新時代を築く

徳川慶喜が大政奉還の奇策に出ると、大久保が朝廷内で王政復古の大号令と小御所会議によるクーデター工作を執る。
その間、西郷は外部で倒幕の挑発にあたり、江戸薩摩藩邸焼き打ち事件を起こさせ、幕府が非となる形で先端を開かせた。
江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
この戊辰戦争で、残存する幕府勢力は一掃され、薩摩藩と長州藩が権力を握る明治新政府が誕生した。

士族の反乱と西南戦争

維新後の西郷は一歩退いて国政と関わっており、唯一積極的に関わった征韓論争に敗れた後は、鹿児島に帰郷して青年の訓育にあたった。
しかし、この間、明治政府の近代化政策で既得権を奪われた士族の不満が高まり、各地で内乱が勃発。
鹿児島でも、西郷が創立に関わった私学校の士族が反乱を起こした(西南戦争)。
西郷本人は反乱に否定的だったとされるが、反乱軍と行動を共にし、城山で自刃した。

死後、名誉を回復

死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位。
功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる。


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