勝海舟

優れた先見の明を持つ 勝海舟

勝海舟

操船技術を学び、龍馬らを育てた

勝海舟(1823〜1899年)は江戸時代末期の優れた先見の明を持つ幕臣、勝麟太郎とも呼ばれる。
黒船来航後、幕府に海防意見書を提出し才能を認められた後、操船技術を学び、咸臨丸艦長として渡米する。
帰国後、神戸海軍操練所を創設し、坂本龍馬や陸奥宗光に技術を伝える。
戊辰戦争で、新政府軍の西郷隆盛と直談判し、江戸城の無血開城を実現し、江戸の町を戦火より守った。

対外政策に秀でた知識

勝海舟が才能を見出されたのは、老中の阿部正弘(あべまさひろ)が、対外政策の意見を広く求めた事による。
勝は貿易、人材、兵制改革まで論に組み込み、700通以上の意見書の中から海防担当であった大久保一翁(おおくぼいちおう)の目に留まった。

優れた先見の明

勝は情勢の先読みが得意であった。
派遣された長崎海軍伝習所では、3年で出なければならないところを5年間居続けて、操船技術を磨いている。
その後、万延元年の遣米使節に参加している。
また、軍艦に幕府要人を乗せて江戸〜大坂間を往復するパフォーマンスで、神戸海軍操練所を開く許可を得ると、自分の裁量で幕臣以外も受け入れている。
土佐の脱藩浪士であった坂本龍馬や、紀伊藩の陸奥宗光などが、ここで操船技術を学んでいる。
薩摩藩の西郷隆盛と知り合ったのもこの頃とされ、西郷は大久保利通に「どれだけの知略があるやら知れぬ」と、勝の印象を書き送っている。

江戸城の無血開城

1868年、新政府軍の江戸総攻撃が目前となったとき、幕府に残された交渉ルートは、西郷を知る勝のみとなった。
勝はこの交渉で、徳川慶喜が恭順、江戸城無血開城を提案する。
「なに相手が西郷だから、無茶なことをする気づかいはないと思って、談判のときにも、俺は欲は言わなかった」と書いているが、当時の日記には「市街を焼きてその進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんばあるべからず」と書いており、焦土作戦を覚悟した交渉だった事が分かる。

勝の最後

維新後の勝は、徳川家と幕臣の救済に奔走し、77歳で死去した。
最後の言葉は「これでお終い」だったという。



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